梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

誰が為に未来はある 10

前回までのお話 9は、コチラ

 

ビクトルは毎年夏になると、この辺りでは7月が1年の中で最も暑い月だと言う。

我が家でも7月に入った途端から、特に昼ご飯の時間帯と夜の就寝時、本格的にエアコンをフル稼働する日々が始まった。

 

子供部屋にはエアコンがない。

廊下を突っ切って子供部屋と対面する私たちの寝室にエアコンがあるので、夜はキッチン、リビングルームサイドを繋ぐ廊下のドアを閉め、私たちの寝室のエアコンをガンガンにかけて子供部屋まで冷気を送る。

子供たちがまだ小さい頃は、寝ている間も部屋のドアを一晩中開けっ放しにしていられたから、+扇風機でじゅうぶん快適に寝ることができた。

 

だけど、今や子供たちもティーンエイジャー。

さすがにプライベート空間を確保したいお年頃だ。

さらに、今はアーロンがこれだけ閉鎖的な状態なので、彼らが床に付く時は特にアーロンが子供部屋のドアをピシャリと閉めてしまい、当然、子供部屋は灼熱地獄と化していた。

ある日エクトルが「暑くて眠れない」と訴えてきて、それでようやく私たちは毎晩子供部屋のドアが閉め切られていることを知った。

しかも、エクトルの話によれば、どうやらアーロンはわざわざ枕の位置を変え、扇風機の風を独り占めしており、顔面に直接当てて毎晩寝ているため、エクトル側には風がまったく来ないのだと言う。

「アーロンに言ってみたら?」と言うと、エクトルは顔をしかめてブンブンと横に振るだけだった。

詳しい事情は知らないまでも、エクトルもここ最近のただならぬ雰囲気を感じて、これ以上アーロンを怒らせたくないようであった。

結局、誰も何もアーロンには言えずじまいだった。

 

しかし、間もなく転機が訪れた。

 

アーロンの専門学校の申し込みで、エステバンがそのお金をも支払ってくれた件で私が怒りの独演会を繰り広げた2日後、アーロンが私の元へやって来た。

そして、グズグズの鼻声でボソリと言った。

「梅子…。頭が痛い。喉も痛い。鼻水も止まらないし、熱もあって寒気が止まらない…。」

 

それ見たことか。

ここ最近、たしかにうだるような熱帯夜の日もあれば、冷え込むとまではいかないが急に涼しくなる夜もあったから、時々寝る前にエアコンを消していた日もあった。

だけど、子供部屋からは扇風機のフル回転する音が毎晩聞こえていた。

「アンタ、扇風機の風顔面に当てながら毎晩寝てるでしょ?」と尋ねると、アーロンは鼻水をすすりながらバツの悪そうに「うん…」と言った。

「原因はそれ。アンタは風邪を引いたんです。この大事な入試前に。」

今がチャンス!とばかりに私は少しアーロンを叱った。

私の手が震え始めた。

アーロンは「うん…。」とだけ言った。

 

幸い、食欲はあると言う。

味覚も嗅覚も異常なさそうなので、コロナではなさそうだ。

しかし、私は万が一のためにマスクを付け、早速(これまたチャンス!とばかりに)子供部屋に入って部屋の窓を開け、空気の入れ替えをした。

血気盛んな男の子2人が寝起きして、しかも最近のアーロンの引きこもり生活のせいで、おそらく窓もろくに開けていなかったのだろう。

マスクを付けていても、部屋に入った途端にモワっと男の子特有の匂いがして、思わず立ち眩みがした。

アーロンのベッドは相も変わらずグチャグチャで、一方エクトルのベッドは相変わらずビシッとベッドメークされていた。

(小さい頃から、彼らのベッドはいつもこうだ。)

私は持って来たアルコールスプレーを、アーロンのベッドにこれでもかというほど噴射した。

エクトルのベッドにも念のためスプレーした。

エクトルの言う通り、アーロンの枕は本来足元であるはずの場所に置かれていて、扇風機の目と鼻の先だった。

 

手を洗い、キッチンに戻ると、アーロンがテーブルに突っ伏していた。

だいぶしんどそうだ。

とりあえずイブプロフェンを飲ませ、冷凍庫から保冷剤を出してタオルに包み、「おでこか首に当てておきなさい。」とアーロンに渡した。

続けざまにお湯を沸かしてタイムティーを作り、ハチミツとレモンを入れて「喉にはこれが効くから飲みなさい。」と、アーロンの前に差し出した。

「ありがとう。梅子。」とアーロンが言った。

私は「それ飲み終わったら、ベッドに戻って少し寝なさい。あ!扇風機使いたいなら、枕の位置戻しなさいよ?本当は今日ぐらいは使わない方がいいと思うけどね。」と言って、キッチンを去った。

アーロンがもう1度「ありがとう。梅子。」と言うのが聞こえた。

私の手は、まだ震えていた。

 

その後、私はビクトルと一緒に近所のスーパーに買い物へ行った。

スーパーへ向かう道中で、アーロンが風邪を引いたとビクトルに話した。

扇風機の件を聞いてビクトルは「バカが!マミーにまでチクって手に入れた扇風機で、今度は病気かよ!どんなジョークだよ!しかももうすぐ入試だって時に!本当にバカだよ、あいつは。」と吐き捨てるように言った。

 

そうは言うものの、スーパーでは私よりもビクトルの方が「アーロンが好きだから…」と、ミックスジュースやらメロンやら、アーロンの好物や病気でも食べられそうな物をどんどんカートに入れていた気がする。

さらに、帰り道に薬局に寄って、薬も買ってくれた。

なんだかんだ言っても、やはりビクトルは父親なのだ。

 

夕飯は、アーロン用に卵雑炊を作った。

食後にもう1度飲めるようにと、ハチミツとレモン入りのタイムティーを再び作った。

エクトルが夕飯を食べ終えて、キッチンを出て行き、私とアーロンだけになってしまうと、私はアーロンに冷蔵庫の中身を見せて、「これもこれもパパが“アーロンに”って選んで買ってくれたんだよ。好きな時に食べなね。」と教えた。

アーロンは、タイムティーを飲みながら「ありがとう。」を何度も繰り返した。

どうやら泣いているようだった。

 

私がどっこいしょとアーロンの横に座り、ビクトルが先ほど薬局で買ってくれた風邪薬の箱を開けて、説明書を読み始めると、「申し込みのお金の件、ごめんなさい。」とアーロンが言った。

私の思惑通り、やはりアーロンはあの日の私の怒声を聞いていた。

しめしめ、頑張ってスペイン語で怒鳴った甲斐があったと、内心ほくそ笑んだ。

…と、そんなことはおくびにも出さず、私は静かに言った。

「あなたが申し込みを済ませた日の夜、エステバンがパパに電話をくれて、申し込み完了の報告をしてくれたの。でもね、いくらエステバンでもさすがにその日のうちにお金の催促するのは失礼だし、できないでしょう?お金のことに関しては、当人であるあなたがすべきだと、エステバンも思っただろうし、私もそう思うよ。」

「うん。僕がちゃんとパパに言うべきだった。」と、アーロンが言った。

 

しばらく沈黙の後、アーロンが口を開いた。

「パパ、まだ僕のこと怒ってる?」

「正直言うけど、うん、怒ってる。私がパパサイドだからっていうわけじゃなくて、第三者の目から客観的に見ても、今回はあなたが悪い。特に、先月のあのメッセージアプリであなたがパパに言ったこと、あれはマズかった。今回、申し込みとか実際に動いてくれてるのはエステバンだけど、でも誰のおかげで大学やら専門学校やら、希望通りの進学に挑戦できてるの?パパとママのおかげじゃない?その後の学費を払うのだってパパとママだよ?それなのに、“未来のことに口出しするな!”はないわ~。」

「うん…。言い過ぎたと今では思ってる。あの時は、大学受験の結果に絶望してて…。それでついカッとなって…。」

 

専門学校の受験を考えると、最悪のタイミングで風邪を引いてくれたわけだが、でもそのおかげで、私やビクトルが渾身的に看病していることが、アーロンの心を少し開かせることができている。

ホッとするやら、こういうことでも起きないとこいつは素直になれないのか…と呆れるやらだが、私は続けた。

 

「今あなたが話してること、そのままパパに言えば、このしょうもない喧嘩は終わるよ?どうして言わない?」

アーロンは「へへへ…」と照れ笑いするだけで、何も言わない。

「あのね、ぶっちゃけ心から申し訳ないと思ってなくてもいいんだよ。まだパパに何か不満があるとかムカつく!って思うなら、それを秘めててもいい。でも嘘でもいいから“ごめんなさい”って言うだけで、状況は変わるんだよ?これから社会に出れば、こういうことたくさんあるんだからね。ごめんなさいの一言で、部屋に1日中こもる必要もないし、どの部屋も自由に行き来できるよ?今のこの状況は、あなたも息苦しいでしょ?」

「う~ん…。」

本当にしぶとい。

 

「エクトルのことも考えなさいよ。エクトルもこの状況に巻き込まれてるんだからね。」

奥の手でエクトルの名前を出してみる。

「今は、エクトルがパパの傍にいるから、今夜エクトルが寝た後で、パパが1人になった時話しに行きな?私は聞こえてないふりするから笑。」

私は笑ってそう言いながら、アーロンに風邪薬のシロップを入れた付属の小さなカップを手渡した。

アーロンは「このシロップってさー、変に甘いよね。」と言いながら受け取り、クッと飲みほして「うへぇ~。やっぱり甘い。」と顔をゆがめた。

 

その後アーロンはおもむろに立ち上がり、壁のカレンダーを眺めてこう言った。

「パパに謝るのは、受験が終わってからにするよ。その方が安心して何でも話せそうな気がするから。」

まじかーーー。

「えぇー!!受験日まであと4日もあるじゃん!そんなに待たないとなのー?」と、私はシロップのカップを洗いながら、おどけて絶望の叫びを上げた。

アーロンはそれを見て「へへへ、ごめんね梅子。もう少し辛抱してね。」と言いながら、子供部屋に戻って行った。

 

この夜を境に、アーロンは私に対しては、少し心を開き始めた。

友達の誰々は大学のどこを希望していて、受験結果が何点だったから合格したとか自分のように待機リスト入りだとか、8月の終わりに中学時代の旧友たちと旅行に行こうと計画しているだとか、ちょくちょく話してくれるようになった。

 

そして時折、「パパはまだ怒ってる?」と聞いてきた。

ビクトルとアーロンの距離は相変わらず、リビングルームでたった2時間半しか勉強しないのも相変わらずだった。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「誰が為に鐘は鳴る」(1943年公開、アメリカ)をモジって使わせていただきました。

本シリーズの内容と映画は、一切関係ありません。