梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

誰が為に未来はある 11

前回までのお話 10は、コチラ

 

今日も今日とて、長男アーロンの話だが、その前に次男エクトルの話を少ししたいと思う。

箸休め程度に笑。

 

6月で中学1年を修了した我が家の次男エクトル。

学校の通例で、最終学期の成績表は、毎回保護者が受け取りに行かねばならない。

先生方はほぼ皆私たちの顔を知っているので、ビクトルと私が(ビクトルがどうしてもと言うので、私も渋々ついて行った…)校舎へ入るやいなや、会う先生、会う先生から「エクトルは素晴らしい!」と絶賛の嵐だった。

 

エクトルは、アーロン…いや、さらには私やビクトルとも違い、授業を受けただけでもうすべてが頭にインプットされてしまうタイプ。

工作やパワーポイントで資料を作ると言った、作業系の宿題は(時に私の手を借りて)家でやるけれども、それ以外の、例えば問題を解く…とかいうような宿題は、学校の休み時間の間に終わらせてしまうので、家ではやらない。

テスト勉強をしている姿も家では見たことがない。

それなのに、テストはいつもほぼ満点なのだから、家で必死にテスト勉強をしなければならなかった私やビクトルはもちろん、現役で必死中のアーロンにとっても、小憎らしくも羨ましい存在だ。

 

さて、夏休みが始まってから、エクトルは「ダイエットする!」と宣言し、毎日毎日、本当に毎日、午前中の間は友達と公園に出かけ、運動に励んでいた。

日本のアニメの「ハイキュー!!」にかなり影響されたようで、毎日バレーボールを持って出かけた。

しかし、ここはスペイン。

7月の後半ぐらいになってくると、バレーボールは飽きてしまって、やはりサッカーに勤しんでいたようである。

毎日お昼ご飯の時間になると、汗でビッショビショのTシャツで帰って来た。

 

毎日友達と運動に出かけるエクトルとは裏腹に、高校を卒業し大学受験を終え、ビクトルと大喧嘩真っ最中の兄、アーロンは、これまた見事なまでに絶賛引きこもり中だった。

専門学校の入試が終わるまでは、さすがに友人たちと遊びに出かけたりすることは気が引けているのだろうが、それにしても毎日毎日、見事なまでにどこにも出かけなかった。

 

挙句の果てに自業自得で風邪を引き、でもそのおかげで私とだけは普通に会話をしてくれるようになったところまでは、前回お伝えしたとおりだが、おかげで今度は私がその風邪をもらって2~3日寝込むという、えらい目に遭った。

代わりにあっという間に回復したアーロンの姿を見て、ビクトルは「看病してくれた梅子にうつしやがって!なんて恩返しだよ!」と、ますます怒りを募らせるのであった。

 

専門学校入試まであと3日という日の朝、アーロンからもらった風邪でゾンビのようになっている私がヨロヨロとキッチンへ行って水を飲んでいると、アーロンがやって来た。

「これからセルヒオの家に受験勉強しに行ってくる。昼ご飯はセルヒオと適当に何か食べるから。帰りはそうだなぁ、20時頃には帰って来るよ。」

 

セルヒオとは、アーロンの高校のクラスメートで、同じ専門学校へ進学を希望している。

事情はよく知らないが、実はセルヒオはアーロンよりも2つほど年上で、アーロンが高校1年生の時に途中から入学してきた。

彼のご両親はなぜかイビサ島に住んでいて、セルヒオは我が家からも路面電車を使わなければならないほど少し遠くの市街地のピソに1人暮らしをしていた。

お互い馬が合うようで、アーロンはセルヒオが入学してきたその日からずっと今まで仲良しだ。

例の中毒になっているオンラインゲームも、もっぱらこのセルヒオとプレイしている。

 

アーロンはなぜかこの時、セルヒオとどういう受験勉強をしてくるか、詳しく私に教えてくれた。

さらにこの時、私は初めて入試が単に絵を描くことだけではないことを知ることになる。

入試科目には美術史とポスターか何かの絵について技法やどんなメッセージがどこに込められているか等を論文形式で答えなければならない科目があり、絵を描く科目にいたっては、実は2科目あること。

1科目については、時間制限内に、定められた被写体をできれば色を付けるところまで描き上げなければならないこと。

今日は、セルヒオの家で実際にタイマーを使って時間制限デッサンを試してくること。

次から次へと今まで知らなかったことを聞かされて、熱で朦朧としながらも驚愕せざるを得なかった。

「美術史とポスターの科目は、高校でじゅうぶん勉強してきたからたぶん問題ないんだ。でも時間制限内に絵を描くのは練習しないとね。」

 

じゅうぶん勉強したから問題ないだぁ?

あんなに毎回地上スレスレの成績だった人間の言う言葉か?!

練習しないとだぁ?

先月半ばから、ずっと部屋に引きこもってた間になぜその練習とやらをしなかった?!

熱さえなければ、咳さえ治まっていれば、おそらくこの時私はアーロンにそう怒鳴り散らしていたかもしれない。

 

そういえば…と、この時私は1つ思い出したことがあった。

ほんの1日2日前に、「どうしてずっと部屋に引きこもってるの?入試までもう日がないんだから、リビングルームでガッツリ受験勉強すればいいじゃん?」と、アーロンに尋ねたのだ。

その時アーロンは、う~ん…と少し考えてからこう答えた。

「絵って、誰かに描け!って言われておいそれと描けるものではないんだ。だけど、パパはいつもいつも僕に描け描け言うでしょ?何もわかってないんだよね。だから、今なら描ける!と思う時までリビングルームに絵を描きに行かないんだよ。」

その時は「はぁ…。」としか言えなかった。

だけど、後から後から「あいつはピカソにでもなったのか?」と、怒りが湧いてきた。

気分が乗ったら描く…そういう言葉はプロの有名画家辺りが言うものであって、学生のうちは、ましてや絵を描く入試が目前に控えてるようなアーロンは、手首が腱鞘炎になろうが血反吐を吐こうが、描いて描いて描きまくれ!ぐらいの勢いでやらないと、ダメなんじゃない?

しかも、ビクトルが描け描けとしつこくアーロンにプレッシャーをかけているのなんて、今まで見たことがないし、喧嘩を始めてからというもの、ビクトルは1度もアーロンに話しかけてないけど?

 

…と、つい先日シャワーを浴びながら心の中で愚痴りまくったことを思い出しながらも、でもそんな心の叫びを実際に口にする気力も体力もなかった私は、「そっか。じゃあ頑張っておいで。アンタまだ風邪が完全に治ったわけではないんだから、念のためセルヒオのお家でもマスク外しちゃダメだよ。今は彼だって風邪引くわけにはいかないんだからね。」と言って、送り出すのが精いっぱいだった。

 

翌日も、アーロンはセルヒオの家に絵を描く練習をしに行った。

 

そして、その翌日。

いよいよ入試は明日というこの日、またアーロンが私の所にやって来た。

「絵を描く道具を買いに行ってくる。夜までには帰って来るから。」と言って、出かけて行った。

入試直前で、3日連続の外出だった。

 

でも待てよ?
道具を買うためだけに、朝から晩まで出かける?

しかも手ぶらで?

今となっては、この時のアーロンの行動が不思議だと気付くことができる。

でも、その時私はまだ風邪っ引き真っ最中で、頭が正常に働いていなかった。

 

その日の夜、私はだいぶ体も回復してきて、子供たちの夕飯を作り、溜まっていた洗濯物を畳み、せわしなく動いていた。

とはいえ、朝まで伏していたわけだから体力が続かず、時々休憩を入れながら家事をこなしていた。

そんな時に、またしてもアーロンが私の所にやって来て言った。

「今夜はエアコンの水は僕が捨てるから、梅子はゆっくりしてていいよ。」

 

エアコンの水とは…。

これはスペインあるあると言ってもいいかもしれないのだが、スペインの大概のマンションには、最新の建物でもない限り、ベランダに雨どい設備がないことが多い。

例えば我が家のベランダもそうなのだが、雨水などがベランダに溜まった場合、それを排水する排水口はある。

排水口はあるが、そこに水が通るとマンション下の歩道に直接落ちていくため、昼間など人の往来が多い時間帯に水が流れ落ちようものなら迷惑千万なのだ。

そのため、そのようなマンションにエアコンを取り付ける場合は、エアコンからの排水ドレンホースの先には、ポリタンクなどを各自で用意して、排水が歩道に落ちないようにしなければならない。

ポリタンクに水が溜まれば、それも各自トイレなどにその水を捨てなければならないという、意外と厄介な作業だ。

ところが、こういったポリタンクを用意していない、もしくはこまめに水を捨てていない家が少なからずあって、マンション脇の歩道を歩いていると、上から水がポタポタ落ちていたりするので、そこを避けて歩かなければならない。

これもいわゆる、スペインあるあるで、且つ、夏の風物詩の1つかもしれない。

 

さて、話を戻して。

アーロンにエアコンの水のことを言われて、純粋に「あ!水捨てるの忘れてた!」とハッとした私は、「ありがとう。でもいいよいいよ。私が今捨てに行くわ。」と言って立ち上がり、無意識にリビングルームへ向かってしまった。

私の後を追いながら、アーロンが続ける。

「それから、明日からは梅子より早起きした日は僕が水を捨てるよ。」

「お!ありがとねー!じゃあ、明日からよろしく頼むわ!」

やけにアーロンがいそいそと私の後をついてきた。

 

我が家のベランダはリビングルームに面しているので、一旦リビングルームに入らなければならない。

そういえば、リビングルームは、今日はめずらしく夕飯を終えてすぐに、アーロンが使っていた。(…と言っても、入試前日なのだからどんどん勉強してもらわないと困るのだが。)

 

リビングルームに入った時には気付かなかった。

でも、もうエアコンからの排水でほぼ満タン状態のポリタンクを持って、ベランダからリビングルームに戻った時に、私は驚きの光景を目にした。

 

アーロンが翌日の入試のために絵を描いているはず、大判のスケッチブックが開かれているはずのテーブルの上には、なんと、あの、アーロンの大事な大事なノートパソコンが置かれていた。

ノートパソコンは開いていて、画面から煌々と明かりが漏れている。

 

今、私は何を見た?!

頭を整理しながらトイレに向かい、黙々とポリタンクの水を捨てる。

はぁ…、もう1度あの場を通らなくちゃならんのか…。

もう1度見なくちゃならんのか…。

軽くなった空のポリタンクとは反対に、心がずっしり重い。

意を決して、再びリビングルームに向かう。

 

リビングルームでは、アーロンが椅子にもソファにも座るでもなく、落ち着かない様子で私が戻って来るのを待っていた。

私は何も言う気がおきず、アーロンを無視してベランダに行き、ポリタンクを設置すると、無言でリビングルームを後にした。

もう1度チラッとだけノートパソコンを見た。

いつものオンラインゲームの画面になっていた。

 

未来を決めるかもしれない大事な専門学校の入試の前日。

アーロンは絵を描く道具を買いになんぞ行ってなかった。

そもそも、いつの間にか「ママに買ってもらった」と言う、プロ顔負けってぐらい十分すぎるほどの鉛筆セットやらコンテのセットやら、100色近い色鉛筆のセットやら(しかもどれもほぼ新品同様)を持っているくせに、今さら何の道具が必要か。

この大事な大事な日に彼は、わざわざ嘘までついて母親の家に行き、ノートパソコンを持って来たのだ。

明日、入試が終わればすぐにオンラインゲームを始められるように。

未来を決める入試の準備よりも、入試後のゲームに溺れる日々のための準備の方が大事だったのだ。

 

日頃は「暑い暑い」と、「梅子エアコン付けた?」と、毎日しつこいぐらい言うわりには、ポリタンクの水のことなんて1度も気にしたことがないくせに、なぜ、今日になって急に言い出したのか。

それは、私にノートパソコンを見られたくなかったからだ。

 

これは呆れ?裏切られた感?騙された感?それとも怒り?

なんだかよくわからない感情が、みるみるうちに私の心をどす黒く染めていくのを感じた。

茫然と立ち尽くすアーロンを見ることも、話すこともなく、私は無言でリビングルームのドアを閉めた。

閉めた途端、泣きそうになった。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「誰が為に鐘は鳴る」(1943年公開、アメリカ)をモジって使わせていただきました。

本シリーズの内容と映画は、一切関係ありません。