梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

そしてエクトルは、ここにいない。

スペインの子供たちの夏休みは長い。

小学校も中学校も、例年、6月の下旬(22日とか23日頃)から9月の第1週目、2週目半ばぐらいまでが夏休みだ。

冬休みや春休みは、日本のそれと同じぐらいの日数だけど、夏休みが日本の倍以上あるので、当然日本の小中学校よりも授業日数は短い。

日本でさえ近頃は、子供たちの学力の低下が問題視されたりしているのに、この国の子供たちはこれで大丈夫なのだろうかと、時々心配になる。

 

さて、ビクトルとシュエの養育権の契約で、子供たちの夏休みは以下のように両親の家を行き来することになっている。

6月→平常通り。平日はビクトルの家、週末はシュエの家。

7月→丸々1ヵ月間を、ビクトルまたはシュエのどちらか一方の家。

8月→7月に過ごさなかったもう一方の家。

9月→平常に戻る。平日はビクトルの家、週末はシュエの家。

7月と8月で、どの月にどちらの家にするかについては、ビクトルとシュエが毎年交互に選ぶ。

奇数の年はビクトルが、偶数の年はシュエが選ぶことができる。

今年は2021年、奇数の年なので、ビクトルが子供たちと過ごす月を7月にするか8月にするか選んだ。

選んで相手に伝える期日は、毎年4月30日までに伝えなければならない。

この期日さえも契約に盛り込まれている。

 

ビクトルは、いつも7月を選ぶ。

このパンデミックが起きなければ、いつもならば毎年夏は日本に行く。

7月はまだスペイン国内でもいろいろなことが機能しているから、子供たちの学校関係の用事だとか、仕事関係の納税だとかを済ませることができるからだ。

特に学校関連の用事は、厳密には6月の終わりから7月の始めにかけてのわずかな期間で済んでしまうのだが、子供たちがビクトルの元にいてくれた方が、成績表や夏休みの宿題を直接手渡すこともできるし、進学の手続きも本人と一緒に進めていけるから、ビクトルも手間が省けるのだ。

ちなみにスペインの8月は、大人も本格的にバケーションに入るので、こういったことがほぼすべてストップする。

学校は完全に閉まってしまうし、役所関係も時短やら休館やらで機能しなくなる。

 

子供たちの学校関係の事務的な用事(成績表を取りに行くとか、新学期からの教科書代等を支払いに行くとか)は、今までずっとビクトルがやっている。

それまで偶数の年は、シュエもいつも7月を選んだ。

となると、必然的に私たちの日本行きは7月になってしまうのだが、そんな時は、ビクトルは子供たちの学校や仕事関係先に事情を話して6月中に用事を済ませてもらっていた。

「納税はともかく、子供たちの学校の用事はシュエにやってもらえばいいじゃない?」と、私はよくビクトルに言うのだが、ビクトルは決してシュエを頼ろうとしない。

シュエと連絡を取り合いたくないのがいちばんの理由だが、学校側、特にエクトルが今通っている学校はアーロンも卒業生で、幼稚園クラスからの付き合いなので、先生方もビクトルとシュエの関係をよく理解してくださっているから、特にビクトルのこうしたちょっとした融通はいつも快く聞いてくださるので問題がなかった。

そんなわけでシュエは、アーロンとエクトルの今までの学校関係の事務仕事は、一度もタッチしたことがない。

 

話が少し脱線するが、ところで昨年のパンデミック真っ只中の時は、初めてシュエが8月を選んだ。

「子供たちの希望を聞いた結果」と彼女は言っていたが、おそらく違う。

私たちが日本に行けないのを見越した上で、敢えて選んだ。

事実、子供たちの話によれば、誰もシュエに「7月はパパたちと過ごしたい」だとか、「8月はママの家で過ごしたい」とは言っておらず、彼らでさえもが「ママが8月を選ぶなんてめずらしい」と思っていた。

 

さて、話を戻して今年の夏休み。

前回までの「誰が為に未来はある」シリーズからもずっとお伝えしていた通り、奇数年の今年はビクトルが7月に子供たちと過ごすことを選び、アーロンとのあのすったもんだがあった。

8月は、ビクトルと私はフリーだったが、結局今年も日本へ行くのは断念した。

さらに「17→18歳の夏」でお伝えした通り、アーロンがビクトルとの話し合いをよーく理解して、母親シュエにも上手いこと言えたのであれば、今月9月からアーロンは我が家には帰って来ないはず。

その件については、こうして9月が始まった今でも、シュエから何のアクションもないので、不気味と言えば不気味なのだが、変に刺激して要らぬトラブルを起こしたくないので、ビクトルも私もだんまりを決め込んでいる最中だ。

 

さらに、8月の終わり頃にはエクトルから「9月5日の日曜までママの家にいてもいい?」とメールが届いた。

今年、9月1日は水曜日。

1ヵ月ぶりに我が家に帰って来たとしても、1日2日後には週末になってしまうので、再び母親の家に行かなければならないのがバカらしいからという理由だった。

「これはママがそう言ったからじゃないよ?僕がそう思ったから、まずはパパの許可をもらいたくてメールしたんだ。」と、エクトルのメールには書かれていた。

 

アーロンの一難が去ったと思ったら、次はエクトルでまた一難か…と、正直ビクトルも私も思った。

これだけ長年、シュエやアーロンから似たような要求を繰り返されていれば、条件反射的につい身構えてしまう。

ただ、今回はエクトルが彼なりに考えた上で相談してきたこと、決して母親の入れ知恵などではないと捉えることにして、本人にもその旨を伝えた上で、ビクトルは「特例!」とOKを出した。

 

本当は、もし1日にエクトルが帰って来たら、私はビクトルに「エクトルを連れてIKEAに行こう!」と提案しようと思っていた。

ずっと前から、アーロンがこの家で普通に生活していた頃から、実は私たち夫婦は子供部屋を改造したかった。

でも、なんだかんだで時が過ぎてしまい、手つかずのまま、アーロンが母親の家に定住することになった。(予定。)

それに、エクトルは今まで1度もIKEAに行ったことがないと言っていた。

過去に、シュエの家から帰って来ると「IKEAの近くに○○がある」だとか「IKEAのレストラン知ってる?」だとか言うものだから、私はてっきりシュエ家族がすでに連れて行ってくれているものだと思っていたのだが、実際、IKEAに行くのはいつもシュエ1人だけか、シュエとその夫マックスだけなのだそうだ。

だから、いつも大した所に連れて行けない私たちだけど、せめてIKEAぐらいには連れて行ってあげたかった。

アーロンが家を出た(予定。)今、子供部屋の改造をエクトルと一緒にやるのも、なかなか素敵なことじゃないか。

だが、この儚い私の希望は、言葉にすらなることなく消えた。

 

9月4日土曜日、私とビクトルは近所のスーパーへ買い物に行った。

明日からエクトルが帰って来るのに備えて、朝ご飯のためのヨーグルトやマフィン、お昼ご飯や夜ご飯のための食材を大量に買ってきた。

学校は8日から始まるので、エクトルが学校に持って行く用のおやつやペットボトルの水も買った。

エクトルが帰って来た日の1日目の献立は何にしようか、2日目は?3日目は?などと、ビクトルと話しながら帰宅して、冷蔵庫や食料棚を満タンにした。

 

5日、日曜日。

我が家のもう1匹の息子猫の助が、8月の間中、アーロンとエクトルのベッドを我が物顔で使い放題していたので、ベッドのシーツを取り換えた。

アーロンのベッドも、一応、念のために取り換えた。

これで、エクトルが(もしくはアーロンも?)帰って来る準備は万端だ!

 

…と思っていた矢先に、シュエからビクトル宛てにメールが来た。

「夏休み最終日の7日まで、エクトルは私の家にいてもいいですか?」

 

ビクトルが、ものすごく低い声でメールの内容を教えてくれた。

もーーーーーーーーーーーーーう!!!!!

またかよ!!!!!

私は、今シーツを取り換えたばかりのエクトルのベッドにヘタヘタと座り込んだ。

 

メールによれば、今回はシュエがそう希望しているらしく、まだエクトルには話していないと書かれていた。

ビクトルの方で決めてくれていいとも書かれていた。

だが、なぜそう希望しているのか、理由は書かれていなかった。

だったら帰してよこせよ!!!!!

「僕はもう…、もう、何て答えればいいかわからない…。」と、ビクトルも困憊していた。

「梅子はどう思う?梅子の意見に任せるよ。」と言われ、なんで私が決めなきゃならんのよ?!と、少しビクトルにもイラっとした。

「ちょっとトイレに行ってくる。トイレで考えてくる。」

なぜか私はそう言って、しばしトイレにこもった。

 

はぁぁぁぁぁぁぁぁぁもう。

どうしてあの人(シュエ)は、契約のルールを守れないんだろう。

どうしていつもリクエストしてくるんだろう。

そんなことばかりが頭の中をグルグル旋回したが、今はそんなことを考えている場合ではない。

何がエクトルにとって最善の策かを考えなくてはならない。

無理くりに考えをまとめてトイレを出ると、ドアの外でビクトルが待っていた。

「僕がいちばん避けたいのは、今夜だろうがいつだろうが、エクトルが帰って来た時にエクトルが不機嫌モードで帰って来る、これだけは避けたいんだ。僕の判断でエクトルが不機嫌になって、またアーロンの時のようにレボリューションの再来だけは絶対に避けたい。」

「んなことわかってるよ!!!私だってイヤだよ!!!」

つい、言葉が荒くなってしまう。

毎回こうだ。

毎回、夏休み、冬休み、春休み、長い休みの度に、なんなら普通の週末の時だって、シュエからこういうリクエストメールが来て、私たち夫婦は愕然と怒りの中、「でも子供たちにとってどれが最善か?」を考えなければならなくて、私とビクトルは必要のない、まったく必要のない言い争いを繰り広げ、結局辿り着く答えは、子供たちを思ってどころかシュエの思惑通りの結果になる。

ダメだと言えば、「ほらね、あなたの答えはいつもあれはダメこれはダメ。少しは子供たちのことも考えなさいよ!」と、シュエは私たち文句を言い、いいよと言えば、「ほらね、どうせあなたたちのパパはあなたたちのことなんかちっとも愛していないのよ。」と、子供たちに吹き込む。

いーーーーーっつもこうだ。

アイツ(シュエ)は一体なんなんだ????

私たちはどうすりゃいいのよ????

 

「シュエ、まだエクトルには話してないって言ってたよね?私たちからエクトルに連絡取って、エクトルの意見を聞こうよ。それがいいと思う。」

いつもの一通りの必要のない言い争いを終えて、私は冷静に言った。

「そうだな。よし梅子、パソコンを開いてくれ。」と、ビクトルが言い、私たちは書斎に移った。

エクトルと私は、インスタグラムのアカウントを交換しているので、急ぎの用事がある時は、インスタグラムのDMでやり取りをしている。

シュエの家で自身のスマホを所持しているエクトルは、ビクトルとのやり取りのためのメールよりインスタグラムの方が早く反応してくれる。

「エクトル元気にしてる?梅子だよ!今日あなたがパパの家に帰らないと、ママから連絡が来たんだけど、何かあったの?」と、私は早速DMを送った。

 

間もなくエクトルから返事が来た。

「ママはいつ僕が帰ると言ってるの?」

ここから先は、私はビクトルにやりとりしてもらうことにした。

ビクトルはシュエからのメールの内容を簡潔に伝え、「ママからもうこの話は聞いてるか?」とたずねた。

エクトルは寝耳に水のようだった。

「これだけは伝えておくね。今日までママの家にいてもいいかと聞いたのは僕の意思だけど、今回のは僕の意思じゃないよ。ママがどうしてパパにそう言ったのかは僕も知らない。」

「ありがとう。お前の意思じゃないということはよーくわかった。」とビクトルが返した。

「パパはお前の意見を聞きたい。お前がまだママの家にいたいのなら、パパはママにOKとメールをしなくちゃならない。」

 

少し間があって、エクトルから返事が来た。

「僕は正直どちらでもいいんだけど。それに、これはパパとママの話し合いなんだから、パパの意見をママに言うのが筋じゃない?」

…ごもっとも。

「まぁそれはそうなんだけども。そうすればパパはきっとNOと答えたよ。でもまずはお前の気持ちを知りたかったんだ。」

「そっか。なるほどね。今日までママの家にいることを延ばしてもらったのは僕だから、約束どおり今日帰るのが筋だと思う。だけど、ママが今そうやってパパにお願いしてる以上、僕はママの言うとおりにした方がいいような気がする。」

「そうすれば、みんなが多くのことを“節約”することができるからね。」

 

エクトルは「多くのことを節約」と表現したが、それはきっと「無駄な争いと、そのための無駄な労力」のことを意味するのだろう。

生まれてきてからずっと、両親の諍いを見てきて、我が家では父親と兄の諍いを、別の家では母親と再婚相手の諍いを、家族が常に言い争う異常な光景を見て育って、養われたエクトルの防衛方法を、ちょっとだけ垣間見たような気がした。

アーロンも可哀想な子。

エクトルも可哀想な子。

アーロンを救い出すことができなくて、エクトルには救いの手を求める情けない私たち。

 

「OK。それじゃあエクトル、7日の夜に会おう。気を付けて帰って来なさい。」とビクトルが返して、エクトルからも「うん。じゃあ、火曜日の夜に!チャオ!」と返事が来て、私たちとエクトルの極秘会議は終了した。

ビクトルは自分のデスクに戻り、早速シュエ宛てにメールを打ち始めた。

できるだけ皮肉を込めて「今、エクトルと話をして本人からも了承を得たので、OKです。エクトルには7日の夜のいつもの時間に帰って来るよう言っといたので、よろしく。」と、短いメールを送った。

いつものことながら、シュエからその後返事が来ることはなかった。

 

それにしても、どうして今回シュエはエクトルを帰したくなかったのだろう。

そればかりがまだ頭の中でうねうねと残っている。

5日から7日なんて、たった2日間だ。

「だったら、そんな2日ぐらいもう少し私の家にいたっていいじゃない!」と、頭の中のシュエが喚く。

たしかに、たかが2日だけど、だったら我が家に帰してくれてもよくない?と、私もすかさず応戦。

 

アーロンが我が家に帰って来れなくなってしまったから、少なくともシュエサイドの人間を送りこむことができなくなったことが気に入らないのだろうか。

アーロンは、いわばスパイでもあったけど、万が一何かあった時のためのエクトルの護衛のような役割も果たしていたから、エクトル1人だけを私たちの家に帰らせるのを恐れているのだろうか。

私たちがアーロンをシュエに押しつけたから、腹いせに何かしてやりたいけど名案が浮かばなくて、咄嗟の行動だったのだろうか。

全然わからない。

シュエの気持ちが読めない。

 

「私がもし母親だったら…」と言うと、「でも梅子はシュエじゃないんだから、シュエの気持ちなんて理解できないよ。」と、ビクトルはいつも私の言葉を遮る。

 

 

■本記事のタイトルは、映画「そして俺は、ここにいない。」(2019年制作、アメリカ・メキシコ合作)をモジって使わせていただきました。

記事の内容と映画は、一切関係ありません。