梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

梅子さんは学習をしない 3

前回までのお話は、コチラ

 

木曜日。

今日もまた、エクトルが火曜日と同じ塾に行く日だった。

 

昨日謝って以降、私はエクトルにせめて最低限の言葉がけはしようと心がけた。

所詮、家族。

大喧嘩をして、たとえそれが皆納得のいくように解決しなくても、なんとなくなぁなぁになるというか、いずれは自然に会話が戻って来るはずだ。

私は、あの日窓から大声で叫んで、エクトルを辱めたこと、それから調子に乗って、つい母親シュエの皮肉を言ってしまったことを肝に銘じて反省しなければならないことは、心にずっと留めておこうと思っていた。

だけど、これ以上に胸が痛いのは、あの口論の結果、エクトルの暴言によって今度はビクトルが「許せない!」と怒っていることだった。

これもまた、そもそも私が蒔いた種だ。

2人を取り持とうにも「どの口が!」と双方に言われるのが目に見えていて、解決の糸口を見いだせずにいた。

 

今日は木曜だから、翌日の金曜、学校が終わったらエクトルはシュエの家に行ってしまう。

今週最後の晩ご飯に、私はエクトルの大好物のソースカツ丼を作って、塾から帰って来るのを待っていた。

たとえ火曜日のように21時過ぎに帰って来ても、今日は怒るまいと、当然ながら心に決めていた。

だがエクトルは、21時になろうかという頃に帰って来た。

おそらく今日は、友達を送ることなく真っ直ぐ家に帰って来たのだと思う。

 

「おかえり。ご飯できてるよ。あ、でも先にお風呂に入る?」と聞くと、エクトルは、「ただいま。あ、うん。先にお風呂行ってくる。」と穏やかに答えた。

少しずつではあったが、エクトルは私の言葉に返してくれるようになってきた。

私は、「OK。じゃ行っといで。ご飯用意しとくからね。」と、笑顔で言った。

 

先日作ったスコップケーキが、冷蔵庫にまだ少し残っていた。

ビクトルが残りを全部食べると言っていたのだが、風邪を引いて具合が悪くなり、食べれずにいた物だった。

今ビクトルはとても食べれそうにもないし、かと言って生ものだから早く食べてしまわないとダメになってしまうので、夕飯のデザートとして、エクトルに食べてもらうことにした。

お風呂を終えてキッチンに入って来たエクトルに「パパ、今具合悪くて食べられないから、代わりに食べちゃってくれる?」と伝えると、エクトルは「そうなんだ。わかった、ありがとう。」と言って、食卓についた。

 

エクトルが夕飯を食べている間、私はその背後で食器を洗っていた。

洗いながら、「今日寒くなかった?風が強いよね?」などとエクトルに話しかけ、エクトルも普通に、だけどいつもよりは若干言葉少なめに返してくれた。

雰囲気が丸くなったところで、私は再び「エクトル、この前は本当にごめん。もう窓から叫んだりしない。約束する。」と言ってみた。

今まで返事を返してくれていたエクトルだったが、これに対しては何も返事をしなかった。

あぁ、まだ彼の中では収まりがついていないんだな、まだ怒ってて当然だよなと思った。

 

エクトルが心を溶かし始めているのに対し、問題はビクトルだった。

ビクトルは、エクトルが学校や塾から帰って来る時間帯は、エクトルと顔を合わせないように、いつもリビングルームに閉じこもって映画を見ていた。

ビクトルは、「僕からは絶対にエクトルには擦り寄らない。アイツから僕に何か言ってくるまでやめない。」と、頑なだった。

 

この日の夜、私がいつものように書斎でパソコンをいじり、ビクトルは相変わらずリビングルームで映画を見ていると、エクトルが廊下をウロウロしているのに気が付いた。

たぶん、ビクトルを探していたのだと思う。

私がいる書斎も覗き込んできた。

「寝るの?」と聞くと、エクトルは「うん。」と言った。

「そっか。おやすみ。明日も学校頑張って。」と言うと、エクトルはビクトルのいないデスクを少し見つめてから「うん。おやすみなさい。」と言って、自室に戻って行った。

エクトルはビクトルにも「おやすみなさい。」と言いたかったのか、それとも何か話したいことがあったのか…。

ますます自分のしでかしたことの罪深さに胸が痛くなった。

 

金曜日。

いつもならば、エクトルが母親シュエの家に行く時は、ビクトルも私も2人でエクトルを見送っていた。

だけど、この日もやっぱりビクトルはリビングルームから出てこなかった。

ビクトルがいつもエクトルに言う、「ママの家の鍵は持った?バスのカードは持った?」という言葉を、今日は私が代わりに言って、「それじゃ良い週末を。気を付けて行くんだよ?」と見送った。

昨夜とは打って変わり、この日のエクトルは少しぶっきらぼうだった。

「うん。そっちもね。じゃあ。」とだけ言って、振り返ることもなく出かけて行った。

玄関のドアを閉めた時、私は体中の内臓が全部出てくるんじゃないかってほどの、大きな溜め息をついてしまった。

この週末、私たちと離れたことで、エクトルの気が少しでも紛れてくれるといいなという期待。

だけど、日曜になって「またあの地獄に戻らねばならないのか…」と思われるのはつらいという不安。

エクトルが行ってしまって、ある意味“緊張”が緩んだ束の間の安堵。

でも問題は終わったわけではなく、日曜の夜エクトルが帰って来た時に、もしかしたらその後もこの張りつめた雰囲気が続くかもしれない絶望。

そういう思いが全部ごちゃ混ぜになって出た溜め息だった。

 

昔の、レボリューションの頃のアーロンの場合だと、間違いなくアーロンは週末の間にシュエに事のあらましを話していた。

どれだけ理不尽にビクトルや私に蔑まされたかという点だけを重点的に話してシュエを味方につけ、そしてシュエからビクトル宛てにクレームのメールが来る…というのが、常だった。

 

エクトルはどうだろうか。

昨夜は塾から真っ直ぐ帰って来たようだった。

ということは、おそらく彼の中でも多かれ少なかれ、自身の非は認めているのだろうか。

だけど、まだ私の愚行と、ビクトルが罰を与えたことに関しては、受け入れられないでいると思う。

もし、エクトルもアーロンと同じなら、「大したことしてないのに、梅子がヒステリーになり、それに反発しただけでパパに外出禁止令出された。」とでも、シュエに報告するだろうか。

 

週末。

私がそう気にしていると、ビクトルが言った。

「エクトルは、そんなことはしないよ。僕たちとこうなってしまったのは、元はと言えば自分のせいだってことを、アイツはわかってるはずだ。ただ、自分の過ちや不利なことは、僕たちにも言わないように、シュエにだって言わないさ。」

私がハラハラしているのとは裏腹に、こういう時のビクトルは、やけに落ち着いてどっしりと構えた表情をしている。

あぁ、やっぱりそれは、ビクトルは子供たちの本当の父親だからなんだろうなと、いつも思う。

 

それにしても、ビクトルの顔色は悪かった。

熱もないし咳もないが、週末の間中ずっと臥せっていた。

ビクトルは大の病院嫌いで、私が「病院に行こう?」と一言言うだけで、そんなに怒らなくても…というぐらい激怒する。

だけど、もう、このまま家庭薬やらハーブティー、のど飴程度の物を駆使し続けているわけにはいかない。

「病院は行かなくても、せめてオンラインで診察受けて、医者からきちんとした処方箋もらった方がいい!」と説得し、なんとかオンラインの診察を受けさせることにした。

パンデミックのおかげで、唯一この国の政府がやってくれた良いことは、オンライン診察のシステムを作ってくれたことだと、つくづく思う。

処方してもらった薬のおかげで、ビクトルの風邪は少しずつ回復してきた。

 

ビクトルの体調が良い時、先日のエステバンとの電話の話を少しずつだが詳しく教えてくれた。

水曜日の時点では、ビクトルもまだ私に対して怒りがあったから、その時は終始「言い出しっぺは君なんだから、反省しなさい。」という姿勢だったが、実はエステバンからは「こうなることは時間の問題で、誰が始めてもおかしくなかったんだから、責任を感じなくていいと、梅子に伝えて。」と言われていたそうだ。

エステバンにまで慰めの言葉をもらってしまってありがたいけれど、でもやっぱり責任を感じずにはいられない。

ビクトルとエステバンの電話では、私がしでかしたことよりもむしろ、エクトルが私たちに対しとんでもない暴言を吐いたこと、そしてそれはやはり母親シュエの子供たちへの洗脳の賜物だという話がメインだったようだ。

子供たちが小さい頃は、シュエと私たち夫婦は特に揉めに揉めていた時期でもあったし、アーロンのレボリューションでは、シュエだけでなくアーロンさえもが私たちを敵視していた環境だった。

だからそんな中で育ったエクトルにとっては、あの日の私との喧嘩は、「あぁやっぱりね。パパと梅子は、やっぱりママやアーロンの言うとおり、鬼だった。」と再認識してしまったのかもしれない。

 

「それだけじゃない。」とビクトルが言う。

そもそもシュエの中では、私は何者でもない空気のような存在にされている。

それにシュエの家では、シュエの現夫マックスの地位が子供たちよりも下に成り下がっているのも、私がもう1人の保護者として子供たちに認められていない原因の1つだと、ビクトルは言った。

仕事もしていない、未だにスペイン語もままならず、スペインの仕組みがイマイチわかっていない私など、今の子供たちには何の役にも立たない。

それをもう1人の親だと言われても、何のありがたみもないだろう。

 

日曜日。

夜、エクトルがシュエの家から帰って来た。

「週末、友達とセントロへ遊びに行ったんだ。お祭りの爆竹ショーを観てきたんだよ。」と、私に教えてくれた。

だけど、ビクトルには「ただいま。」も、「体調はどう?」も、「おやすみなさい。」もなかった。

まるでエクトルの中では、ビクトルは存在しないもののようになっていた。

 

週明け、オンライン診察で処方してもらった薬が切れた頃、再びビクトルの具合が悪くなってきた。

今度は、風邪ではない別の症状。

「もう1度オンライン診察受けてみようよ。」と言っても、「1日2日様子を見させてくれ!」と、ビクトルは頑として診察を拒んだ。

そして、「僕が具合が悪いことを絶対にエクトルには話すな。」と言うのだった。

 

もう…。

どうしたらいいんだろう。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「田中さんはラジオ体操をしない」(2011年公開、オーストラリア)をモジって使わせていただきました。

記事の内容と映画は、一切関係ありません。


www.youtube.com