梅子さんは学習をしない 2
前回までのお話は、コチラ。
私はまだ怒りが収まっていなかった。
手がブルブル震えていた。
あぁ、やってもうた…という気持ちと、ここまで大暴れしちゃったんなら、いい機会だ、今までの鬱憤晴らしたれ!という気持ちが入り乱れていた。
でも、もう一方で冷静に、ここでビクトルと徒党を組んではいけない、ビクトルに同意を求め、エクトルの前でビクトルを私の側につけるわけにはいかないとも思った。
ドアの向こうのエクトルに伝われ!という気持ちで、私はビクトルに声を上げた。
「もうあなたも私のことはほっといてよ!1人にさせて!ここから出てって!」と、ビクトルの背中を押し、書斎から追い出して、ドアをバタンと閉めた。
それから私は、皆が寝静まる深夜遅くまで、書斎に籠城した。
気晴らしにYoutubeをいくつも見漁ったが、全然頭に入ってこなかった。
ひっきりなしにタバコを吸い、書斎の中は煙で濛々としていた。
吸い過ぎて頭も痛くなってきたし、気持ち悪くもなってきたけど、もう1本、もう1本と、手を止めることはできなかった。
だんだん落ち着いてきた頃、やはり窓から叫んだのはやり過ぎだったと、後悔した。
エクトルの名前を呼んだわけではない。
バカだのアホだのと、罵ったわけでもない。
ただ一言、「おーそーい!!!」と言っただけだけど、でも言われたエクトルにしてみれば、十分恥ずかしかっただろうし嫌な気分になっただろう。
エクトルが帰って来た後だって、もう少し言い方があった。
怒りに任せて鬱憤を晴らすような言い方じゃなく、あの時深呼吸でもして1歩引いた、それこそ大人の冷静な言い方をしていれば、ここまで最悪の状況にはならなかった。
考えれば考えるほど、後悔ばかりだった。
もう、アーロンのレボリューション(反抗期)の時のような地獄の数年間は送りたくない。
だけど、私は結局あのレボリューションから何も学んでいないと、つくづく自分のアホさに呆れた。
明日、エクトルに謝ろうと思った。
エクトルとの口論の最中、責任がー、心配がーと言い合いしていた時、あまりのエクトルの生意気な話し方に、「アンタ、何様よ?この家のボスでもないくせに!」と、私は言った。
すると、それにカッとなったエクトルも、「梅子こそ何様だよ?親でもないくせに!」みたいなことを返してきた。
薄々感じてはいたけれど、あぁ、やっぱりエクトルもそう思ってたんだと、グサリとその言葉が胸に突き刺さった。
“なんちゃって母ちゃん”と自称して、1人で親になった気分で今まで子供たちに接していたことが、バカみたいに思え、恥ずかしくなった。
わかっちゃいたけど、やっぱり子供たちにとって私は、父親をそそのかして奪った悪い女で、単なる家政婦に過ぎないと思われていたのだと。
でも、たとえなんちゃって母ちゃんだろうと、家政婦だろうと、これまで自分なりに彼らを育ててきた以上、心配する気持ちは止められない。
だけど、心配だからといって、本当の親でもない人間が窓から叫んで子供を辱めていい道理はない。
「窓から叫んでごめんね。」と言おうと、決めた。
私が書斎に籠城を始めて1時間か、いやそれ以上たった頃、ドアの向こうでビクトルが誰かと話しているような声が聞こえてきた。
何を話しているのか、聞く気はなかったので、私が席を立つことはなかったけど、ビクトルの声は終始荒ぶることなく穏やかだった。
もしかしたら、部屋から出てきたエクトルと、男同士で話しているのかもしれないと思った。
いや、むしろそうであってほしいと、淡い期待すら抱いた。
その夜、ベッドに入っても私はなかなか眠ることができなかった。
また地獄の数年間が始まるのかと、恐怖しかなかった。
でも、そのきっかけを作ったのは、紛れもなく私だと、自分がしでかしたことに恐怖しかなかった。
水曜日。
それでもやはりいつの間にか眠ってしまったようで、まだ暗い朝方にハッと目を覚ますと、ベッドにビクトルがいなかった。
きっと、私と一緒に寝たくなくて、リビングルームのソファに行ったんだ。
ビクトルも相当私に怒ってるな…と、また重い気分になった。
午前中、ビクトルは私に一切声をかけなかった。
私もまだ話す気になれなくて、そのまま放っておいた。
昨夜のことが響いたのか、ビクトルの風邪の症状が少し悪くなっているように見えた。
ビクトルは、リビングルームのソファと寝室のベッドを何度も往復しながら横になっていた。
(後から聞いたのだが、この時はベッドで寝続けると、腰が痛くなるから往復していたらしい。)
午後になって、エクトルが学校から帰って来た。
いつもなら、ビクトルと私の両方にそれぞれ「ただいま。」と言うエクトルなのだが、この日は無言だった。
私の方から「おかえり。」と言うと、エクトルは「あぁ。」だか「うぅ。」だかよくわからない言葉をボソッと言って自室に入って行った。
エクトルのその言い方や、声の質が、アーロンと同じだと、思わずにはいられなかった。
私は意を決して、エクトルの部屋の前まで行った。
ドアは完全には閉められてはおらず、少しだけ半開きだった。
ピシャリと閉められていないだけ、まだ望みはある。
ドアをノックすると、「ちょっと待ってて。」と、部屋の中のエクトルが言った。
何て言うのかな、こういうちょっとした発言も、実はエクトルのすごいところで、相手がビクトルだろうが私だろうが、絶対に自分主導に持って行く。
用があって相手を呼ぶ時は、相手の所には行かない。
あくまで相手を自分の元に呼び寄せる。
相手が用があってエクトルを呼ぶ時は、必ず「待って。」と言ってすぐには来ない。
そういう感じ。
私は待たなかった。
部屋に入って行くほどの勇気はなかったので、エクトルが着替えをしていようが何をしていようが、耳だけ貸してくれていればかまわなかった。
私はドアの前で、「エクトル、昨日は窓から叫んじゃってごめん。」と言った。
エクトルは無言だった。
居たたまれなくなり、私はトイレに逃げた。
なんというビビり具合…。
トイレの中で、「言ったー!言ったぞー!ごめんて言えたー!」と拳を握りしめて、1人で静かに歓喜していると、遠くのエクトルの部屋の方で、ビクトルとエクトルが話しているのが聞こえた。
何を話しているのかはわからないが、ビクトルの声がなんとなく厳しい声に聞こえた。
「梅子を許してやってくれ。」とでも話してくれているのだろうか。
…などと、のん気なことを考えながらも、まぁいい、私としては、やるべき仕事は果たした。
一通り落ち着くと、私はトイレから出てキッチンへ向かった。
すると、ビクトルがリビングルームから顔を出して、私を待ち構えていた。
私の顔を見ると、「ちょっと来て!」と、荒く手招きをした。
顔も当然怒っていた。
「なに?なに?」と、困惑しながらリビングルームに入ると、ビクトルはすかさずドアを閉め、私の手を引っ張って、もっと奥のベランダの方へ連れて行かれた。
そして、少し小声で、でも怒りに満ちた声でビクトルが言った。
「どうして謝ったりした?君のしていることは、昨日からずっと間違ってるよ。」
「は?どうしてよ?昨日私が窓から叫んだことは、たしかに悪かったと思ったから、謝っただけだよ。」
私がそう返すと、咳き込んでしまうのを抑えながら、ビクトルが話し始めた。
「さっき、君がエクトルに謝罪した後、僕はエクトルに罰を与えた。」
え?なんで?
昨夜、私が書斎で籠城中にビクトルの話し声が聞こえていたのは、エクトルと話していたからではなく、甥っ子のエステバンに相談の電話をしていたからだった。
またエステバンを引きずり込んだのか…と、エステバンに対し恥ずかしくなった。
なぜビクトルがエステバンに電話をしたのか。
それは、私が気付かなかったもう1つの問題があったからだった。
「昨日、エクトルと口論していた時、君は気付かなかったのか?アイツ、僕たち2人に対して“お前らはクソゴミ共だ!”と言ったんだ。」
気付かなかった…。
“ゴミ”もなかなのパンチ力だが、その前の“クソ”がまずかった。
ここでは、日本語上“クソ”と意訳したが、実際にエクトルが発したスペイン語は、いわゆる“F●CK”や“B●TCH”のような、禁止用語というか、一般的には人様に向けて決して言ってはいけない特上級の汚い言葉、とんでもない罵り言葉だった。
そんな言葉を、親に向けて言い放ったことを、ビクトルは怒り、問題視していたのだった。
きっと昨日の私のように、エクトルもまた怒りに任せて思わず口にしてしまったのだと思う。
エクトルは、幼少の頃は癇癪持ちだった。
今は成長していくらか自制することができるようになったが、やはり根は変わらないのかもしれない。
でも、とにかく、私がそこまでエクトルを興奮させなければ、エクトルもきっとそんなことは言わなかったはずだ。
「そうだね。今回の原因の大元は君だ。その辺はしっかり反省してもらいたい。」
私は、「はい…。」と小さく返事をした。
「でも、こうなるのは時間の問題だったんだ。エステバンが“遅かれ早かれ通らねばならない道だった”って言ってたよ。」
エステバンは、現在、市内のとある小中高一貫学校で、中学クラスと高校クラスに教鞭をとっている。
そんな、現役教師のエステバン曰く、彼の務める学校でも毎年、生徒たちがまさしくエクトルと同じ14歳、同じ中学2年生になると、たとえ今まで学校ではとても良い子であった生徒ですらも、何かしら問題を起こし、親たちが学校に相談の電話をしてくるのだそうだ。
「きっかり14歳、中2になると始まる。エクトルも同じだよ。」と、エステバンが太鼓判を押した。
そう言われてみれば、アーロンがレボリューションを起こしたのも、14歳、中2の冬だった。
「思春期に入って、ホルモンとかそういう関係で、この時期の子供たちはハメを外すし、親を見下して、レッドラインをバンバン越え始める。今までそういう子たちを何人も見てきた僕の意見としては、今回、エクトルが叔父さんのレッドラインを超えたのであれば、罰を与えるとかして、“お前はまだ親を越えるまでに至っていない”っていうのを厳しく見せた方がいい。それにしても…、“クソゴミ”発言は、完全にアウトだね。」
それで早速、エクトルと話そうとしたら、私が先にエクトルと話していて、親の威厳?を見せるどころかヘコヘコと謝っていた。
私が謝ったことで、エクトルのプライドが復活してしまった。
そんなところで「罰を与える!」などと言っても効果がないと、ビクトルに叱られた。
昔、アーロンと揉めて、どう解決しようかとなった時、エクトルが「アーロンはプライドが無駄に高いんだ。だから、そんなことをしたら逆効果だよ。」と、私たちにアドバイスをくれたことがあった。
今、改めて思えば、エクトルの方が実はプライドが高かったのではないか。
それは今に始まったことではなく、小さい頃から。
しかもそのプライドの高さは、アーロンのそれとは比べ物にならないほどかもしれない。
「そうだよ?知らなかった?」と、ビクトルに言われた。
「アーロンの場合は、僕たちがずっと厳しく接していたから、爆発してレボリューションを起こした。だけど、エクトルにはずっと何でも許してきた。多少のことは見逃してきた。それなのに、たった1度の君の叱責で、アイツは爆発した。暴言まで吐いた。僕はそれを見逃すことはできないし、アイツが謝るまで許すことはできない。」と、ビクトルが言った。
ビクトルは続けた。
「最近のアイツは、僕たちが何でも大目に見ることをいいことに、少しずつ少しずついろんな限度を超えていた。門限時間の件については、昨日君が大爆発したけど、それ以外にも、例えば日頃の僕や君への言葉遣いも、実は気になってたんだ。君はあんまり気付いてなかったみたいだけどね。君が爆発するか、僕が爆発するかも時間の問題だったし、エクトルが爆発するのも、すべては時間の問題だったんだよ。」
「それに、昨日、君たちの“何様だ!”云々の口論を聞いていたけど、アイツは完全に君を見下していた。君に対しても、そして僕を含めて罵ったのも、もとはと言えば、長年のシュエからの洗脳の結果だよ。今までずっと母親から君と僕に対する悪口を聞かされてきたんだ、カッとなってコントロールできなくなったら、ついポロっと本音が出て当然さ。」と、付け加えた。
シュエを絡めてくるのは、どちらかというといつもは私の方だったのに、今回はビクトルから先にシュエの名前を出した。
そのことに、私は少し驚いた。
話を少し戻して、エクトルが学校から帰って来て、私が早速謝りに行って、そして一目散にトイレに逃げ込んだ時、その入れ違いに、今度はビクトルがエクトルの部屋のドアの前に行ったわけだが、その時、エクトルは「梅子を差し向けたりなんかしないでよ。どうせパパが梅子に指図したんでしょ?」と言ったらしい。
ひどい…、私が自分で決心して謝りに行ったのに。(T_T)
ビクトルは「そんなことはしていない。彼女が勝手にやったことだ。」と答え、「昨日のお前のあの暴言を、見過ごすことができない。お前がきちんと反省するか、パパがいいと言うまで、塾を除いてお前が外に出かけるのは、この家では禁止にする。」と言った。
エクトルは当然のことながら抵抗した。
「今日、友達の家でみんなと宿題する予定なのに?もう約束して来ちゃったから、僕が行かないとみんなに迷惑かけることになるんだけど。」
「それは何時に終わって、何時に家に帰って来る予定の約束なんだ?門限の20時半には帰って来れるのか?」
そうビクトルが言うと、エクトルは「何時になるかわからない。もっと遅くなる予定。」と答えた。
この期に及んで、まだそう答えられるからエクトルはすごい。
「いつもチャッチャと宿題を済ませられるのに、どうして今日に限ってそんなに時間がかかるんだ?どうせ遊びやお喋りがメインなんだろう?門限も守れないようならダメだ。」
ビクトルが言った。
「遊びじゃないよ。宿題って言ってるじゃないか。もういいよ。行かない。」
エクトルはふてくされながら言った。
「賢明だ。」ビクトルがそう言って、親子の会話は終わったそうだ。
その日、エクトルは部屋に閉じこもったままだった。
私と話した後、ビクトルの風邪の容態はますます悪化したようで、その後はずっと床に臥せたままだった。
私は1人、エクトルとの今後とビクトルの病状に、不安で押しつぶされそうだった。
外に出たら、少しは気が紛れるかもしれない。
そう思って、食料の買い出しに1人でスーパーへ行った。
でもずっと上の空だった。
考えることは、エクトルとビクトルと、後悔ばかり。
今月、この街では大きなお祭りがある。
いたる通りで、お祭りのためのイルミネーションが吊り下げられていて、チュロスの屋台も所々すでに設置されていた。
いつも行っているカフェやバルでは、今日もたくさんの客たちが賑やかにお茶をしていた。
それらがすべて、遠い別の世界で繰り広げられているように見えた。
私の周りだけが、色のない世界のように思えた。
■本記事シリーズのタイトルは、映画「田中さんはラジオ体操をしない」(2011年公開、オーストラリア)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。