地球最後の男 オメガマン
本記事のタイトルに使った「地球最後の男オメガマン」は、私の夫ビクトルがこよなく愛した映画俳優チャールトン・ヘストンが主演する、これまたビクトルがこよなく愛した映画である。
ビクトルが好きな映画や映画俳優は、ハリウッドに限らず日本を含めアジアの映画にもたくさんたくさん、本当にたくさんあるけれど、その中でもチャールトン・ヘストンと、「地球最後の男オメガマン」は別格だと、彼はよく私に言っていた。
3月23日早朝、私の最高にして最愛の夫、ビクトルが死んだ。
私ももちろんだがおそらくビクトル自身も、まさかここで命が終わるとは、きっと想像すらしていなかったと思う。
“道半ば”とは、まさしく、だ。
今でもあの瞬間と、救急隊員たちの1時間以上に及ぶ賢明な蘇生処置、その後警察官が来て、死亡を確認する医師と葬儀屋が来て、早朝にもかかわらず、その間に続々と駆け付けてくれたビクトルの友人たち、そして母親シュエの家から駆けつけた長男アーロン。
あの時の光景は、思い出したくもないのに今でもフラッシュバックして、その度に息ができなくなる。
ビクトルとの結婚生活で、私は、“箱入り娘”ならぬ“箱入り嫁”だった。
ビクトルが全部私の代わりにやってくれて、いつもいつも守られていた。
「同じボートの船員=運命共同体だ。」と、私たちはお互いそう言い合っていた。
だけど、実際の生活の中の、いわゆる“実務”をこなしていたのは、100%ビクトルだった。
私は、そんなぬるま湯のような、夢のような世界に、ただフワフワと、ビクトルの周りで浮いていればいいだけだった。
ビクトルが突然いなくなってしまって、今はただただ怖くて、寂しくて、ビクトルがいないこの現実を受け止めることが、どうしてもできない。
目を開けていると、家中のすべての物はビクトルが大好きだった物ばかりで、目を開けているのがつらい。
だけど、目をつぶると、あの時の光景が鮮明によみがえって来るし、ビクトルの声や笑顔が浮かんで泣けてくるし、これからどうしようとあれこれ考えて怖くなる。
初めの1ヵ月近く、見かねたビクトルの友人の1人が、「姉が医師だから…」と言って融通を利かせ、「パニックになったり、泣いて眠れない時は飲みなさい。」と、薬をくれた。
ほぼ毎晩、私はその薬を飲み、ビクトルの遺灰の入った壺を抱きしめて、泣き疲れて眠った。
でも、朝になってふと目が覚めると、やっぱり現実は変わっていなくて、ビクトルがいなくて、ベッドの上にはビクトルの遺灰と私と、猫の助しかいなくて、泣きながら起き上がる。
いつもそうだったように、愚痴を言いたくても、今日あったほんの些細なことを話したくても、ちょっとおどけた顔をして見せたくても、もうビクトルがいない。
これからずっと、ずっとずっと、ずーーーーっと、「あぁ、もうビクトルはいないんだ。」と思わなければならないのかと思うと、耐えられない。
ビクトルの元へ行きたいと、時々思ってしまう。
「そんなこと、ビクトルは望んでいないよ?」と、皆言うけれど、どうしてそんなことがわかる?
ビクトルだって私といたいにきまってる。
だけど、「そうしたら、毎日心配してLINEをくれる日本の姉や年老いた両親はどう思う?」と考えると、できない。
足元に擦り寄ってくる猫の助の温もりを感じると、「私がいなくなったら、この子はどうなる?」と考えると、やるせなくて涙が溢れる。
ビクトルは、時々幼馴染みの友人たちに飲みに誘われて、1人で出かけることもあった。
でも本当は、ビクトルは1人では行きたくなくて、いつも私を誘った。
だけど、その時のメンバーや集まる目的によっては、私が付いていくのは憚られる時もあったから、そんな時私は「たまには男同士で楽しんでくればいいじゃない!」と、笑ってビクトルの背中を叩いた。
するとビクトルは、「じゃあできるだけ早く帰って来るから!梅子がいないとつまらないんだよ。」と、いつも言うのだった。
ビクトルとのこの結婚時代、私が常に心掛けていたことは、ビクトルにはビクトルの好きなようにさせる、だった。
これまでずっと、ママ(=義母)のことや前妻のこと、子供たちのこと、いろんなしがらみにがんじがらめになっていたビクトルを、少しでも解放してあげたかった。
子供たちのことはこれから先も親としての責任が付きまとうけど、それ以外のことは、彼が楽しめることを目いっぱいやってほしい。
いつもそう思っていた。
だから、友人たちと飲みに行くことも、時間など気にせず思いっきり楽しんで来てほしい。
「早く帰る」と言うビクトルに、私はいつもそう言って、送り出していた。
だけど、今は違う。
何時間待っても、何日、何ヶ月、この先何年待ち続けても、ビクトルが帰ってこない。
怒っても泣いても喚いても、お願いだからと膝をついて懇願しても、ビクトルが帰ってこない。
ビクトルのスマホに電話をかけたくても、持ち主を失ったビクトルのスマホは、今私の目の前にある。
メールを送っても、返事は一向に返ってこない。
手紙を書きたくても、今どこにいるのかわからない。
「ビクトルはもういないんだ。梅子はまだ若い。これからは新しい人生を歩みなさい。」
いろんな人にそう言われる。
新しい人生?
なにが新しい人生だ!
そんなもの、くそくらえだ!
ビクトルがいたから、私の人生は毎日幸せで、完璧だった。
これ以上の人生なんかない。
あり得ない。
ビクトルのいないこれからの私の人生なんて、想像できないし、考えたくもない。
それでも、毎日毎日、ビクトルがいないまま日が昇り、日が沈み、容赦なく月日は流れていく。
気がつけば、もう半年を過ぎ、地獄だった2022年が終わりに近づいている。
「地球最後の男オメガマン」は、その題名のとおり、地球に生き残った人間は、チャールトン・ヘストン演じるロバート・ネビル、ただ1人だった。
しかしその後ネビルは、同じく生き残っていた人たちを見つけることができる。
今、この家に残されたのは私、ただ1人。(+猫の助)
ビクトルを探しても探しても、見つからない。
私にとって、ビクトルは間違いなく“地球最後の男”であり、“地球最高の男”だ。
■本記事のタイトルは、映画「地球最後の男 オメガマン」(1971年公開、アメリカ)をモジることなくそのまんま使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。