梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

誰よりも金を愛す 1

9月半ば近くになって、ようやく新学期が始まった。

新年度の始まりでもある。

なんやかんやの末、我が家の次男エクトルは、学校が始まる前日の夜にようやく我が家に帰って来て(詳しくは前記事をご参照ください。)、アーロンは無事に…とでも言うか、母親シュエの家での新生活が始まった。

あの、嵐のような夏休みは過去となり、やっと日常が戻って来た。

 

とは言っても、今日は昨日の続きに過ぎない。

この日常だって、あの怒涛の夏休みから切り離されたわけではなく、9月になってもまだプスプスと残り火のように続いていた。

 

アーロンは、大学も専門学校も入学できずにいた。

9月に入っても、大学のいちばんレベルが低くて倍率も低かった修復・復元学科でさえ、アーロンの上にはまだ何人も待機リストに残っていたし、専門学校にいたっては、60人近くがアーロンの上に待機者が残っていて、入学OKの電話がかかってくるなんてもうないだろうと思っていた。

だけどビクトルだけは、「まだわからない。10月に電話が来ることだってあるんだから。」と、私にもアーロンにも言っていた。

 

スペインでは、「入学してはみたけれど、意にそわない」など何らかの理由で、新学期始まって早々に退学したり別の学校や学科に移る…というようなことが多々ある。

そうすると、学校側は入試の結果待機リスト入りだった受験生に順次「空きが出ましたよ。入学しますか?」と連絡をくれるので、たとえ新学期が始まってしまったとしても、意外と望みがまだ残っていたりするのだ。

そう言われてみると、アーロンが高校に入学した時も、しばらくしてから1人、また1人…と言う風に、クラスから去る者もいれば新しく入って来る者もいた。

 

だからビクトルが「諦めるな」と何度も言うのだが、それでも、誰よりも真っ先に今年度の進学を諦めていたのは、当の本人、アーロンだった。

7月の終わり頃、まだ子供たちが我が家で夏休みを過ごしていた時、キッチンで誰かとスマホで話しているアーロンに出くわしたことがあった。

私がひょっこり現れたことにアーロンはひどく驚いて、電話先の相手にかけ直すと伝え、慌てて電話を切った。

その日はたしか、ビクトルが朝から外出していて、アーロンはてっきり私もビクトルと一緒に出掛けたものと思っていたようだった。

そんなようなことをモニョモニョと私に言った後、アーロンはいそいそとリビングルームに移って、電話をかけ直していた。

 

電話を終えて、まるで何事もなかったような顔でキッチンに戻って来たアーロンに「誰と話してたの?」と聞くと、「中学の時に通ってた絵画教室。」と答えた。

大学も専門学校もきっと入学できないから、9月からその絵画教室に通うつもりなのだと。

 

まるで他人事のように、さも当然とばかりに話すアーロンのその話し口は、私の怒りが再燃するのにじゅうぶんな威力を持っていた。

今まで大した受験勉強もせず、「絵というのは、描けとプレッシャーかけられて描けるようなものじゃないんだよね~。」と偉そうな言い訳だけは達者で、私が何も言わないことをいいことに、その当時ビクトルには未だ謝りもしなければ口も利かず、ビクトルの甥っ子エステバンまで巻き込んであれだけの大騒動を繰り広げておきながら、自分の至らなさを悔いもしなければ落ち込みもせず、「ダメだったから次は絵画教室!」と、よくもまぁ次から次へとお金のかかる話を平然と口にできるものだ…と思うと、私の手がみるみるうちに震えてきた。

「あのさぁ、その月謝払うのは誰よ?アンタじゃ払えないよね?払うのはアンタのパパとママだよね?まずはそのお金を払ってくれる人、ママだけじゃなくてパパにも“行ってもいいですか?”って聞いてからじゃない?絵画教室に電話するのはその後じゃない?そう思わない?」

それまで意気揚々と自身の恥を晒していたアーロンがふと黙ったが、私は震える手をギュッと握りしめながら続けた。

「それにせめて高校にいる間、1年間だけでもがむしゃらに受験勉強さえしておけば、絵画教室なんて行く必要なかったかもしれないわけだし、親に無駄金を払わせなければならないことを、まずは恥じて感謝の気持ちを伝えるのも先だと思うけど。」

アーロンは、「うぅ」だか「うん」だかよくわからない返事をして、しばらく私の横でうなだれていた。

 

…と、そんな日があったのも、今は遠い遠い過去のように思われるが、この件もまた、9月になった途端、再び話題の中心に舞い戻ってきた。

というのも、アーロンがビクトル宛てにと、私のスマホのメッセージアプリに送ってきたメッセージが事の発端で、7月に電話をしていた絵画教室に通いたいと、改めて言ってきたのだった。

 

この絵画教室は、我が家の近所にある。

月々5千円ほどの月謝でリーズナブルなのはありがたいが、小学生からお年寄りまで幅広く通っていて、美大受験のため…というよりはむしろ、趣味のサークル教室のようなところだ。

もし浪人することになったとしても、こんなところでチンタラ1年間を無駄に過ごさせるわけにはいかないと、ビクトルは早速別の美術系のアカデミア(塾のようなところ)を探し始めた。

そこで見つけたのが2校。

1つは美大受験対策の専門コースがあるが、コンピューターグラフィックにはいまいち弱い。

もう1つは、コンピューターグラフィック系のコースには定評があるが、美大受験対策コースはない。

まさかとは思ったが、ビクトルはこの2校にアーロンを通わせたいと言い出した。

月謝はそれぞれ日本円で約1万円。

美大受験対策コースがある方のアカデミアには、プラス8千円/月で油絵のコースも通わせるらしい。

さらに、大学受験の英語と国語が絶望的な結果だったことから、英語と国語のアカデミアにも通えという話になり、この塾についてはアーロンに探させることにした。

アーロンの本命は、大学ではなく専門学校であるため、専門学校の入試には英語と国語は含まれない。

「でもママもやっぱり僕には大学に行ってもらいたいみたいだし、パパも大学に進学してほしいって言うんならわかったよ、2人がそれで満足するんなら、英語と国語のアカデミアにも通うよ。」と、超絶上目線な返事を返してきた後日、アーロンが見繕ってきたアカデミアは、英語、国語、それぞれに月1万1千円ほどかかるとのこと。

ざっと見積もっただけで、総額5万円近くが毎月飛ぶことになった。

これらの費用は、ビクトルとシュエの共通口座から引き落とすことになるので、実際にはビクトルもシュエもそれぞれ約2万5千円ずつの出費ということになるが、ちなみに毎月2人がこの口座に預け入れている金額は、それぞれ約3万円だ。

アーロンとエクトル2人の子供のための6万円なのに、バカな息子のために5/6を使おうとしているビクトルもシュエも、相当甘い!と、私は1人憤っていた。

 

ただやはりビクトルだけは、「でもまだ諦めるな。これから大学か専門学校から空きが出た連絡が来るかもしれない。」と言って、すべてのアカデミアに通うのは10月になってからということになった。

だがアーロンは、焦りからか「そんなに待っていられない。」とゴネて、早速コンピューターグラフィックに定評があるというアカデミアに体験入学し、9月だけ通うことになった。

そして早速、教わったソフトを自身のノートパソコンにインストールし絵を描いてみたと言って、がったがたの線で描かれた青い猫のイラストと、小学生が描き写したようなレベルの、とあるアニメのキャラクターのイラストの画像を、嬉々として送ってきた。

 

そして、9月も終わろうとしていたとある日、アーロンから「専門学校の方に空きが出て、入学できることになった!」と連絡が来た。

一緒に受験していた、高校時代の親友セルヒオも入学できることになったらしい。

セルヒオの受験成績はアーロンよりも数点上だったはずだから、アーロンが入学できるのなら、セルヒオも入学できて当然だろう。

「ほら、だから諦めるなって言っただろう?」と、ビクトルが何度も電話口で言っていた。

 

そんなわけで今、アーロンはビクトルと共に入学手続きをしている。

「ママに手伝ってもらえばいいだろう?」とビクトルが言ったのだが、アーロンは「うーん、でもママは難しいことはよくわからないから、パパとやれって。こういう大事なことはパパとやった方が確実だからって。僕もこういうことはパパとやった方が安心できる。」と答えた。

 

日頃からあれだけ「私はあなたと違う!」だの「あなたは子供たちのことを何もしない!」だのとビクトルに豪語するくせに、自分の分が悪くなったり厄介事が起きると、「スペイン語がよくわからない…」と、外国人の特権を大いに生かしてビクトルに丸投げするシュエ。

アーロンと暮らすことになっても、そういうところだけは健在のようだ。

 

とにかく、これでまた1つ、ビクトルの肩から大きな荷物が降りた。

アカデミアへのバカバカしい浪費も、その後にやってくる予定だった再びの受験騒動もめでたく回避された。

夏休みから続いていた残り火が、1つ、無事に消火された。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「誰よりも金を愛す」(1961年公開、日本)をモジることなくそのまんま使わせていただきました。

記事の内容と映画は、一切関係ありません。