梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

誰が為に未来はある 1

5月、我が家の長男アーロンが、高校を卒業した。

 

小学生の頃から、アーロンはとにかく勉強が嫌いだった。

毎日のように、「今日は宿題がない」とビクトルに嘘をつき、翌日になると、連絡帳には先生からビクトル宛てに「宿題をしてきませんでした」とメッセージが残されている。

これが日常だった。

 

本来連絡帳には、アーロンは宿題をメモして帰って来なければならないのだけど、親と先生がやり取りするページ以外は、いつもほぼ真っ白だった。

だから、アーロンが学校から帰って来ると、まずはビクトルが連絡帳を確認して、本当に宿題がないのか、まるで昭和の刑事のようにしつこく問い詰め、やっと白状させるところから始めなければならなかった。

 

スペインでは、義務教育の小・中学校でも、成績が落第点だと次の学年に進級できない。

10段階で成績が付くのだが、4は落第点。

我が家の子供たちが通った小学校ではたしか、3教科以上の成績が4だと、次の学年に進級することができなかった。

だから、たとえ小学生でも、テスト期間中はなおさら、ビクトルが目を光らせなければならなかった。

 

それでもアーロンは、“いかにテスト勉強を回避するか”、次から次へと方法を編み出した。

そんなに頭を働かせることができるなら、なぜその力をテスト勉強に発揮しない?というほど、いろいろやらかしてくれた。

今でも鮮明に覚えている彼の“傑作”は、まず初めに、本来明日テストであるべき教科ではない、別の教科を「明日のテストはこれだ」と言い、しつこく問い詰めるビクトルに根負けして、本当の教科を自白。

自白したはいいものの、今度は、テスト範囲ではないページを「ここがテスト範囲だ」と言い、ビクトルが付きっきりで何時間も、その偽のテスト範囲を勉強した。

翌日、学校へ迎えに行った時に、「テストどうだった?あそこの部分は上手く解けたか?」とビクトルが聞くと、アーロンではなく、傍にいたクラスメートの子が「そこは前回のテスト範囲で、今日のテストはそこじゃないよ?」と言うではないか!

案の定、家に帰る道中で、ビクトルの雷が落ちた。

それ以降、ビクトルは、宿題やテストの教科、範囲は、息子のアーロンにではなく、このクラスメートの子から毎日聞くようになった。

 

いつも成績は低空飛行。

毎回ギリギリではあったが、それでもアーロンが1度も落第することなく、毎年無事に小学校で進級できたのは、少なく見積もっても7割はビクトルの日々の苦労のおかげだと思う。

 

中学生になって、あの超絶レボリューション(凄まじい反抗期。私はこれをレボリューションと呼んでいる。)が始まる前も、始まってからも、アーロンの成績はいつも落第点ギリギリの低空飛行のままだった。

レボリューションが始まる前の、まだ優しかった頃のアーロンが、ある日私にこう言った。

「もう勉強はたくさん。中学が終わったら、僕は調理師の学校に行って、調理師をめざす!高校なんて行かない!」

 

しかし、レボリューションが始まってから、突然、大学へ進学したいと言い出した。

絵を描くのが好きだから、美術系の高校と大学に行って、ゆくゆくは、絵を描く仕事に就きたいと。

この、「美術系に進みたい」という夢も、レボリューションならではの彼なりの理由があった。

 

ビクトルとシュエが離婚する前の、別居時代、その頃シュエは仕事で海外を飛び回っており、ほとんどスペインにいなかった。

ビクトルは離婚するかもしれないという失意のどん底の中、必死で1人でまだ幼いアーロンを育てた。

ビクトルにとっては人生最悪の時期だったが、アーロンにとってはそうではなかった。

この時の、父親を独り占めできたビクトルとの濃密な時間を、アーロンはよく懐かしがって「あの時は楽しかった!」と、事あるごとに私やビクトルに話していた。

だけど、レボリューションが始まってからは、その時の出来事を「今までの人生の中で、最悪で悲しい時期。パパは僕を愛していないと痛感した時期。」と言うようになった。

 

「あの時僕を支えてくれたのは、パパでもなくママでもなく、絵を描くことだけだった。勉強はちっともダメだけど、あの時の淋しさが絵を上達させてくれた。だから、僕はこの武器で将来を切り開いていく。」

 

中学3年の3学期の終わり、もう、どうにもこうにも我が家の空気が最悪で、それはもっぱらアーロンのおかげで、なんだけども、ある日ビクトルが甥っ子のエステバンを家に招いた。

この頃のアーロンは、私たち夫婦の話は一切拒否するようになっていたので、アーロンにとっては兄のような存在のエステバンに、私たちの代弁をしてもらうことになったのだ。

そしてその時に、私たち大人は上記の彼の夢を、いつの間にか捻じ曲げられてしまった幼い頃の思い出と共に、初めて聞かされたのだった。

 

「大学に進学したいことはわかった。でも、今のお前の成績じゃ、大学どころか高校の進学も危ういぞ?」

ビクトルが言うと、アーロンは「だから普通科には進まないんだよ。成績が悪くても行ける美術科に行くんだ。これ以上成績を上げる気はない。ギリギリでもテストにパスして進級できればいい。進級できなさそうな時は、僕のために塾を探すなり、家庭教師を雇うなりするのが、親の義務。」と言った。

このトンデモ発言には、大人一同苦笑した。

 

エステバンが「お前はこんなにこの家の雰囲気を悪くしてるけど、これはいつまで続ける気なんだ?」と訊ねると、アーロンは言った。

「僕にとってはこの雰囲気が最高に快適だから、この家の人たちが不快だろうが何だろうが知ったこっちゃない。でもどうしても我慢ならないって言うんなら、そうだなぁ、あと1年頑張ってよ。」

「なぜ?」

エステバンが聞いた。

「あと1年中学行ったら、ママの家の近くの高校に行くから、この家を出てママの家で暮らすんだ。」

※スペインの中学校は4年制。

 

しかし結局、シュエの家の近くの高校へ行くことと、シュエの家で暮らすことは、叶わなかった。

理由は簡単だ。

シュエがそのアーロンの計画をバッサリ拒否したことが、おそらくアーロンの中ではいちばん大きな理由だろうが、それとは別に、後日ビクトルが弁護士に相談したところ、「養育権の契約上、とにかく息子さんは、成人になるまで1年の半分を父親とも過ごさなくてはなりません。母親の家の近くの高校に通うのであれば、平日は母親と、週末は父親と過ごさなくてはなりません。」と言われた。

これをビクトルがアーロンに伝えた時の、絶望に満ちた顔たるや。

 

さらに、中学4年生になると、当然、クラスメートの間で「進学する?どこの高校に行く?」と話題になり始める。

アーロンの友人たちは皆、我が家から徒歩10分の高校に進学を希望したのも、アーロンの計画を狂わせた。

母親の家は、我が家からだいぶ離れており、当然この辺の子供たちの学区エリアではないので、そんな所へ進学したら、1人からのスタートになってしまう。

通う科は違えど、やっぱり気心知れた友人たちと同じ学校に通いたいと、あっという間にアーロンの計画が変わった。

「あと1年苦しめばいい」と豪語した通り、彼の中学生最後の1年も、母親シュエはもちろん、担任の先生から挙句はカウンセラーまで巻き込む大波乱の1年だった。

そんな中、それでもビクトルは、彼を美術の塾へ通わせ、数学の家庭教師を雇い、そうして“約束の”1年が過ぎた。

 

アーロンは、シュエの家ではなく、我が家から歩いて10分の、例の高校の美術科へ進学し、シレっと引き続き我が家から通い始めた。

この高校には普通科もあるのだが、一緒に通う約束をしていた旧友たちは、結局誰もこの高校へは行かず、それぞれ別の高校へ進学してしまった。

アーロンの中学校からこの高校に進学したのは、なんと、アーロン1人だけだった。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「誰が為に鐘は鳴る」(1943年公開、アメリカ)をモジって使わせていただきました。

本シリーズの内容と映画は、一切関係ありません。