梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

今はきっと ここが帰る場所

近所のスーパーで、洗濯用の柔軟剤の棚を見ていたら、おじいさんが1人、カートを押してやってきた。

いくつも並ぶ柔軟剤のボトル。

当然スペイン語表記だから、1つ1つ読むのに時間がかかる。

 

「ウチではね、いつもこれを使ってるよ。妻といろいろ試してみたけど、敏感肌の僕にはこれがいちばん良かった。匂いもいいし、それに何より安いんだ。ハハハ。僕はこれをおススメするよ。」

棚を凝視している私に、おじいさんはおもむろに声をかけてきた。

一瞬驚いておじいさんに振り向くと、おじいさんはボトルを1つ手に取って、「蓋を開けて匂いを嗅いでみてごらん。確かめるだけなんだから、ちょっとぐらい開けたって平気さ。」と、ニコッと笑って私に手渡した。

私はちょっとだけ周りを気にしながら蓋を開け、匂いを嗅いでみた。

ほんのりと優しい香り。

「うん、いい匂い。ありがとう!これ買うことにするわ!」

私がそう言うと、おじいさんはニコニコしながら「お役に立ててなにより。」と言って、去って行った。

 

そうだ。

だから私はスペインが好きなんだと、思った。

 

 

昨年12月の初旬から、年をまたいでつい先週まで、日本に一時帰国していた。

 

ビクトルに関する手続きとか、遺産相続とか、子供たちへの形見分けとか、大きな出来事は一応年内に終えた。

あとは、前妻シュエから要求されているクソみたいなゴタゴタと、細かいことがいくつか残っている。

 

本当はそれらもすべて年内に終わらせてしまいたかったけど、12月が近づくにつれ、世の中はクリスマスで浮足立ち始めたので、私も思いきって小休止することにした。

少しの間だけすべてをシャットアウトして、半ば強行で日本へ帰ることにしたのだ。

 

ビクトルが逝ってしまってから、何度か日本に帰ろうとはしていた。

でも、その度に税理士や弁護士から「手続きが終わるまでは…」と、止められた。

弁護士からGOサインが出ても、今度は私の精神状態が追いつかなくて、断念することもあった。

だけど、12月になってから、心配し続ける日本の両親も、そして私も、日本行きをこれ以上延ばすのは限界だった。

 

日本への一時帰国は、実に3年半ぶりだった。

スペインに嫁いで来てからというもの、ビクトルの子供たちの養育権の関係で、まとまった時間を取れるのはいつも夏だけだったので、冬に日本に帰るのは初めてだった。

 

長い間、日本に行く時はいつもビクトルと一緒だったし、3年ぶりの飛行機。

そして1人というのは、そうでなくともビクトルを亡くしてこの数カ月間心細さに押し潰されていた私にとっては、再びの大きな試練だった。

 

「ビクトル、空港に着いたよ。これから飛行機に乗るよ。」

「ビクトル、飛行機に乗ったよ。これからパリに行くよ。」

「ビクトル、パリに着いたよ。これからいよいよ日本に行く飛行機に乗るよ。」

「ビクトル、富士山が見えるよ。日本に着いたよ。」

 

フライトの間、ずっと心の中でビクトルに話しかけ、何度も涙をぬぐった。

羽田に着いた時よりも、富士山が見えた時の方がいちばん泣いたかもしれない。

私よりも日本に行きたがっていたビクトルは、きっと私と一緒に来ているはず。

でも、実際にビクトルがいないのが、悔しくて悔しくてたまらなかった。

 

帰国後、私は2日ほど東京に滞在した。

帰国した翌日、私が始めに行ったのは、日本橋の映画館だった。

ビクトルと日本に来ていた時、映画マニアのビクトルは日本の映画館で映画を観ることも1つの楽しみにしていて、それでよく訪れていたのがこの映画館だった。

日本滞在の間、私はビクトルと訪れた場所をできるだけ巡ろうと思っていた。

 

映画館で、チラシの棚を眺めている時(ビクトルはここからチラシを持ち帰って、コレクションしていた)、60代ぐらいのおじさんが1人、ふらりと棚へやってきた。

私は、「ここのチラシ、1枚ずつだけど全部持って帰ってもいいんですかね?」と、その紳士に声をかけた。

紳士は、いきなり声をかけてきた私にギョッとすると、「え、そんなこと僕に聞かれても…。」と一言、ボソッと言った。

 

あぁそうだった、ここは日本だった。

スペインじゃなかったんだと、私も慌ててしまった。

 

スペインでは、男女問わず、知らない人同士でも声をかけて話すことがよくある。

始めに話したスーパーでのおじいさんのように、対・お年寄りだと、それはもっと頻繁にある。

ビクトルの手続きをしている間、私はたくさんの場面で「あなたは感覚が日本人すぎる。」と言われてきた。

だから私はまだ、日本の気質を知っているというか、日本では日本のスイッチに切り替わって、そつなく順応できると思っていた。

だけど、日本に帰らずにスペインの空気にどっぷり浸かっていた3年間という月日は、そんな私でも、少なからずスペインの気質のようなものに知らず知らずのうちに染められていたのだと、この時悟った。

 

日本滞在中、友人たちに会うため、クリスマス前にも再び東京に滞在した。

それ以外はずっと、地方の実家で過ごした。

実家のある田舎だったら、東京の人よりはまだもう少しフレンドリーかな…なんて要らぬ期待をしてみたけど、でもやっぱり、私が(勝手に)描く想像とは違った。

東京も田舎も同じだった。

スペインではほぼどうでもよくなってきつつあるコロナ対策が、日本では未だにガッチガチなのも要因なのかとも思った。

 

3年という月日、そしてその間に起こったパンデミックが、私が知っていたはずの日本をすっかり変えていた。

日本に帰って来る前に、実家の母にコンビニのレジの支払い方法を聞いておいていたから、コンビニや店で買い物をする時は、なんとかギリギリできた。

でも、ちょうど昼時に入ってしまったバーガーキングでは、何も買わずに思わず退散してしまった。

どの列に並んでいいかもわからないし、どうやって注文して受け取りはどこなのかも、まったくチンプンカンプンだったからだ。

浦島太郎状態とは、まさにこのことだ。

それに、列に並ぶ人々の殺伐とした雰囲気が、さすがのスペインかぶれの私でも、声をかけて「どこに並べばいいんですかね?」と聞く勇気は持てなかった。

 

実家に帰った時は、父が私よりも背が低くなっていて、驚いた。

別に腰が曲がったとか、そういうわけではない。

「俺も80になったからな。年取ると、背も縮むんだぞ。」と、父は恥ずかしそうに笑いながら言った。

いつもどこかしら痛い痛いと昔から言っていた母は、それにますます拍車がかかっていた。

今は腰と肩が痛いらしく、左腕が背中に回せないのだと言っていた。

歩き姿も、もう完全におばあちゃんみたいになっていた。

2人とも、足の指の爪切りが難しくなってきたらしく、お互いで切り合っているそうなのだが、老眼をかけてもよく見えないんだと笑っていた。

ある日、私は床に新聞紙を広げて、2人の足の爪を切ってあげた。

父は「いや~。しばらくぶりにスッキリした!気持ちがいい!」と、その後しばらく言い続けた。

 

実家に帰って間もなく、私は原因不明の高熱を出して、3日ほど寝込んだ。

スペインから持って行ったコロナの検査キットで3回も検査して、3回とも陰性と出たから、おそらくコロナではなかった。

 

仕事は休みではなかったので、実家滞在中も持って行ったパソコンで仕事をしていたのだが、慣れない机と椅子だったからなのか、今度は夜もろくに眠れないほどのひどい頭痛に見舞われた。

市販の頭痛薬では、ほんの気休めにもならなかったので、両親がかかりつけのクリニックに連れて行ってくれた。

 

クリニックでは、受付けの事務員さんから看護師さんまで、会う人会う人にお礼を言われた。

両親がよく、畑で採れた野菜を差し入れているそうで、何も知らなかった私の方が恐縮してしまった。

先生には「片頭痛と筋緊張性頭痛のダブルパンチだね。」と診断された。

点滴を打ってもらっていくらか頭痛も治まり、再び診察室に戻ると、先生がふと「熱が出たのも頭が痛くなったのも、お父さんたちの顔見て、きっと緊張が解けたからだろうだね。大変だったね。よく1人で頑張りました。」と言った。

ん?と不思議に思っていると、「急だったんでしょう?旦那さんの死因は何だったの?」と、続けざまに聞かれた。

あぁ、先生は事情を知っているとわかった途端、私は不覚にも大泣きしてしまった。

背後にいた看護師さんが、「頑張った、頑張った。1人で外国でよくやったわよ。うんうん。」と、背中を撫でてくれて、私はますます泣いた。

 

先生には娘さんがいて、イギリスに住んでいるそうだ。

だから、父や母がクリニックに行くと、「他人事に思えない」と言って、必ず私が元気かどうか聞くらしい。

今回のビクトルのことがあって、父はあまりにも私のことが心配で、一時期不眠症になってしまった。

その時、父は先生にビクトルのことを話し、睡眠薬を処方してもらった。

思わぬ所で、思わぬ人々に、私の状況が理解されていて、気にかけてもらっていたんだということに一瞬驚いたけど、ありがたくてまた泣いた。

 

私が実家に滞在している間、日本には寒波が2回来た。

実家は北国で、私も何度か父の雪かきを手伝った。

これを今まで毎年父が1人でやっていたのかと思うと、頭の下がる思いだ。

そして、私がスペインに帰った後も、そして来年も再来年も…と、雪の季節のことを考えると、両親のことが心配になった。

 

私には、兄弟がいる。

兄は独身だが、姉と弟には家庭がある。

今、再び独り身となった私が、ここに戻ってきて両親の面倒を見ながら一緒に暮らすのが、両親にとっても、他の兄弟にとってもいちばんいいことであろうことは明白だ。

 

頭ではわかっているんだけど、それでもまだ、決断を下すことができない。

ビクトルの面影が残る、このスペインの街を離れる決心ができない。

 

 

日本滞在を終えて、スペインに帰ってきた時、私は少しホッとした。

ここには、友人以外、私の帰りを待ちわびる家族はいない。

ビクトルももういない。

だけど、この家に帰ってきた時、私は間違いなくホッとした。

 

「家に帰ってきた。」

そう感じたのだ。

 

帰ってきて間もなく、近所のスーパーへ行ったら、冒頭の出来事があった。

そうだ。

だから私はスペインが好きなんだと、思った。

 

親の介護や現実からの逃避と言われれば、そうなのかもしれない。

だけど、今は、今はきっと、ここスペインが私の帰る場所。

そう思う。

 

 

■本記事のタイトルは、映画「きっと ここが帰る場所」(2012年公開、イタリア、フランス、アイルランド)をモジって使わせていただきました。

記事の内容と映画は、一切関係ありません。


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