梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

バケモノな子 1

だいぶお久しぶりです。

夏が終わって、ブログを書こう書こうと思いつつ、日々を過ごしていたら、季節は冬がもう目の前に…。

毎日大したことはしていないのですが、時が過ぎるのは本当に早いものです。

 

前回まで書いておりました、ママ(=義母)の出来事については、実はまだ未だに思い出して書こうという気になれずにいます。

なので、今日は別のこと、夏から今までのことをざっと書こうと思います。

 

 

6月末に、ママのことがあってから間もなく、我が家の子供たちの夏休みが始まり、7月は子供たちと共に過ごした。

今年は奇数年で、7月と8月、どちらの月を子供たちと過ごすか、ビクトルが選べる年だったので、ビクトルは7月を選んだのだ。

7月は、大抵の学校でサマースクールを開催しているので、子供たちをサマースクールに通わせて、日々をだらしなく過ごすこともないし、その後、8月はお盆に合わせて、ビクトルと私は日本へ里帰りすることができる。

 

子供たちは、歳を重ねる毎に、日本へ行きたい気持ちが強くなりつつある。

だから、7月中は、私やビクトル以上に、子供たちの方が「日本に行ったら…」話をよくしていたような気がする。

まだ彼らにはハッキリとは言えないけれど(前妻シュエに知られたくないので)、来年こそは子供たちを連れて日本に行こうかと、2人でコッソリ話していて、今回の里帰りでも、日本の友人たちや私の家族に、それとなく伝えることにしていた。

 

7月の末、猫の助(我が家のもう1匹の家族)を友人宅に預け、いよいよ子供たちも母親の家に行く日がやって来た。

その前の晩、次男のエクトルは、寝支度を整えながら「本当はママの家には行きたくないんだよね。できることなら、パパと梅子と一緒にいたい。」と言い出した。

そういえば去年の夏、エクトルは我が家から母親の家に行った初日に、私たちが恋しくて大泣きしたらしい。

いつだったか、そうエクトルが照れながら教えてくれたことがある。

「あらー、どうしてー?ママの家に行けば、フアン(=異父弟)にも会えるし、それになにより、この家にいる時よりもたくさんゲームできるじゃん。」と、私が茶々を入れてそう尋ねると、エクトルは「そんなにゲームばっかりやってないよ!」と、すぐさま否定した後、「だって~、ママ、いっつもマックスと喧嘩してるんだもん…。」と、ボソッと言った。

私は「う~ん…」と一呼吸考え、「ママとマックスが喧嘩する時ってさ、いろいろ理由はあると思うけど、その中には、アンタたちが彼らを怒らせて発展する喧嘩もあるでしょう?だからせめて、アンタたちが理由になる喧嘩だけでもなくすように、ママやマックスの言うことはちゃんと聞きな?腹が立っても、口答えしないで、“ごめんなさい”と、“はい!わかりました!”って言っておけば大丈夫!たぶん!」と、笑って言うと、エクトルはますます難しい顔になり、「僕は何も悪いことしてないもん!最近ママたちが喧嘩するのは、マックスが原因だもん。酔っ払って帰ってきたりさー、ママのお金盗んだりさー。」

早速「はい、わかりました。」が言えないエクトルであったが、あちらの夫婦の問題を言われてしまうと、コメントのしようがない私であった。

ただただ「えー!そうなのー?!」と、驚くフリをするしかなかった。

 

翌日の午後、あと1時間もすれば子供たちがシュエの家に行かなければならないという時、私は子供たちを叱った。

今となっては、理由が全然思い出せないのだが、何か、子供たちが責任を持ってしなければならないことをしていなかったことに腹を立てて叱ったのだった。

その後私は、1人ママの家に行って、何か用事を済ませなければならず、「あーぁ、最悪の別れになっちゃったなぁ~。」と、子供たちを叱ったことを後悔した。

用を済ませ、「もう子供たち、行っちゃったかな…。」と、トボトボ家路を歩いていると、通りの向こう側で「梅子ー!」と叫ぶエクトルの声が聞こえた。

ちょうど子供たちとビクトルが、我が家のマンションから出て来たところだった。

私は彼らの元へ走った。

エクトルは、「よかったー!梅子に会えて!」と言いながら、私に抱きついた。

そして、「さっきはごめんなさい。僕たちもう行くね!日本旅行、楽しんできてね!良い夏休みを!」と笑って言った。

アーロンもはにかみながら、「じゃあな、梅子。日本楽しんでね。良い夏休みを。」と言った。

なんでコイツ謝らないんだよ!と一瞬思ったが、理由は、後で家に入ってからわかった。

キッチンの連絡用ホワイトボードに、アーロンからの長い長い“ごめんなさい”のメッセージが残されていたのだった。

子供たちは、ビクトルに連れられて、タクシーが捕まえられる場所まで行くと、早速タクシーが1台やって来て、ビクトルと共に乗り込んだ。

その間、子供たちは、特にエクトルが、何度も何度も振り返っては、私に手を振った。

タクシーに乗り込んでも、車内から手を振り続けていた。

さっきバッタリ出くわした時には、あんなに笑顔だった子供たちが、笑っていないことに気が付いて、もうすでに彼らを恋しく思った。

 

 

8月の日本滞在中は、ビクトルはとにかく、ママを亡くした心の痛みや、スペインに置き去りにしてきたなんやかんやの面倒事を、すべて忘れて過ごすことに躍起…という感じだった。

それでも、私の実家に帰ると、早速今回のママの出来事を両親に報告しなければならなかったのだが、母がビクトルの顔を見るや否や、「この度は本当に…大変だったね…。よく頑張ったね。」と、言葉を詰まらせ、涙を流したのにはさすがに参って、私ももらい泣きしてしまった。

ママの当時の病状や、その時私たちがどんな判断をして、行動したか、でもそれがどんなにつらかったか、等々を、葬儀の時の画像を見せながら話していると、ビクトルが「梅子、今から言うことをお義父さんたちに通訳して。」と、突然改まって言い出した。

「お義父さん、お義母さん、今回の出来事は、僕自身、本当につらかったです。僕1人では、きっと何もできませんでした。でも、梅子がいつも僕を励ましてくれました。そしていつも母のことを気遣い、子供たちのことも気遣い、母をホームに入れるまでの間、文句も言わずに毎日母の家に通って、世話をしてくれました。あなた方の娘さんは本当に、愛に溢れた強い人だといつも思っていました。僕は梅子と結婚できて、本当に幸運です。僕たちを結婚させてくれて、本当にありがとうございました。」

 

…今、こうしてここに書くのも、非常に照れくさいことこの上ないが、これを両親に、しかも私の口から伝えるのは、本当に恥ずかしくて、私は思わず「えー!それ、私が言うの?」と、ビクトルに叫んでしまった。笑。

しかし、ビクトルは「当たり前でしょ。僕は日本語できないんだから。ちゃんとお義父さんたちに、僕の感謝の気持ちを伝えてほしいんだ。」と真顔で言うし、両親は「え?なんて?なんて?」と興味津々で、私は渋々「あのね…」と切り出した。

切り出したのだが、ビクトルが言ったことを父と母に伝えている最中、ふと、あの時のことが鮮明によみがえってきて、気が付けば涙がボロボロこぼれて、最後の方はもう言葉にならなかった。

母は「うん、うん、アンタたちまだ若いから、介護は大変だったでしょう。」と、早速再び泣き出した。

父は、「うん、よくやった。お前は嫁なんだから、お姑さんの介護をするのは当然よ。」と、予想通りの父らしいコメントだった。

 

毎年のことではあるのだが、今年は特に、父が率先して、私たちをいろいろな場所に連れて行ってくれた。

そして、「ビクトル、あの山はな…」だとか、「ここは昔、〇〇があってな…」だとか、バリバリの日本語で説明しながらも、父がいつもよりビクトルに寄り添ってくれていたのが、私にはとても嬉しかった。

 

医療関係に従事している私の友人と、じっくり話ができたのも、良い思い出だ。

ママの介護をしている間、私もビクトルも、なんだかよくわからないまま、自問自答の毎日で不安だったから、こうしてママが逝ってしまった後も、「あれで良かったんだろうか、もっとできることはあったんじゃないだろうか。」と、後悔というか、罪のようなものを感じていた。

だから、日々そういった患者やその家族と接している友人の言葉は納得できたし、何よりも、少し心を軽くしてもらえたことに、とても感謝している。

 

良い思い出だけで終わりたかった日本滞在だったが、そうでないこともあった。

バルセロナのテロ事件だ。

お盆が終わったばかりの、まだ実家に滞在中だった時にそれは起きた。

バルセロナの日本領事館から、1日中メールを受け取った。

ビクトルもPCに張り付いて、インターネットでスペイン現地のニュースを読み漁った。

ヨーロッパで、経済がイマイチ芳しくない国の1つとはいえ、遠い昔には、長い間イスラム帝国に支配され、キリスト教国家が奪還を果たした歴史を持つイベリア半島の国だもの、いつか標的にされるんじゃないか、いつかこういう日が来るんじゃないかとは思っていた。

でもその一方で、スペイン国内では、北の地域でとある武装組織(現在は完全武装を解除)による国内テロ事件が、60年代から度々起こっていたので、「スペインの警察は、そんなに軟じゃないよ。」と言う、ビクトルの言葉を信じ、スペインでテロが起きることはないかもしれないと、一途の希望もあった。

それなのに、それでも、テロが起きてしまった。

母は、「本当に大丈夫なの?無事に帰りなさいよ。」と、引き留めたい感満載で、何度も何度も私に言った。

 

 

毎度のことではあるが、1ヵ月間とはいえ、なんだか結局駆け足のようなスピードで過ぎ去っていく日本での日々。

もう間もなく、現実の国・スペインへ戻らねばならないのを、日に日に億劫に感じながらも、私たちは残り少ない日本での休暇を満喫していた。

その最終週の、東京でのとある日、私たちは、ショッピングモールへ行った。

エクトルに頼まれていたお土産のおもちゃを買うためだ。

ついでに、アーロンの学校用のバックパックも買った。

私はスペインで使うための、日本ならではの調味料やら食材を大量に買った。

その後、レストランで大きなステーキを食べ、シネコンもあったので、映画も見た。

 

滞在しているビジネスホテルに戻り、私はテレビを見ながら寝支度をし、ビクトルは缶ビールを片手にパソコンでメールチェックをしていると、ふいにビクトルが「なんだ?このメール…」と呟いた。

見知らぬメールアドレスから、メールは2通届いていて、タイトルは「アーロン」、もう1つは「エクトル」だった。

タイトルが子供たちの名前ということは、いたずらメールではなさそうだ。

とはいえ、恐る恐るビクトルがメールを開いてみる。

 

メールの送り主は、シュエの夫、マックスだった。

「アーロン」というタイトルのメールには、近頃のアーロンの様子を、「エクトル」のタイトルのメールには、エクトルの様子について、それぞれの恨みつらみがぶちまけられていた。

そして、どちらのメールにも、終わりは「こんなバケモノみたいな子供たちと、僕の息子を一緒にしておけない。僕の息子には悪影響でしかない。」と、締めくくられていた。

 

何かが崩れ落ちるように、急な滑り台を猛スピードで滑り落ちるように、この1ヵ月の心休まる日々は、一瞬にしてかき消された。

一気に現実モードに、しかも強制的に変えられた瞬間だった。

 

 

■本記事のタイトルは、映画「バケモノの子」(2015年公開、日本)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。