今のママでいて 3
前回までのお話(1)は、コチラ。
前回までのお話(2)は、コチラ。
木曜日から、子供たちのイースター休暇が始まった。
休暇の初日は、午前中、ビクトルは、子供たちの宿題の世話やら何やらで忙しかったので、その時間、私は1人でママの家に様子を見に行った。
次の日は、イースターで食べる伝統的なお菓子と、それから近所のケーキ屋でケーキを買って、子供たちを連れてママの家を訪ねた。
月曜日の、ママを床の上で発見した日から毎日、私とビクトルは、時には2人で、時には私かビクトルが1人で、そして時には子供たちを連れて、ママを訪ねている。
「なぜかしらね~。最近あんまりお腹が空かないのよ。」と言うようになったのが気にかかるが、それでも日に日に顔色も良くなって、手の震えも消え、とりあえず少しホッとしている。
私が1人で訪ねた日、ママは、パパ=義父が生きていた頃の話と、戦争の時の話をしてくれた。
特にパパの話では、昔パパがよく言っていたジョークの話をたくさんしてくれて、残念ながら私は半分もママの言うことが理解できなかったが、それでも時々2人で大笑いした。
そんな中、どういう経緯でママがこれを言ったのかはわからないけれど、ママの話はコロコロ変わるので、経緯も何もないのだけれど、これはママの名言だと私は思う。
「いい?人生はタンゴよ。どうやって踊るかを知ること、考えることが、人生なのよ。」―――
ママの家から持ち帰って来た、汚れた衣類や寝具を詰めたゴミ袋を、一旦、我が家のキッチンに置いて、私とビクトルは一休みするために、近所のバルへコーヒーを飲みに行った。
次男エクトルのお迎えまでは、まだ少し時間があったけれど、食べそびれたお昼ご飯を食べるには時間がなかった。
「もう、ママの我儘を聞いてあげられる余裕はなくなった。ママが何と言おうとかまわない。明日の朝、いとこが紹介してくれた教会の介護サービスに電話しようと思う。」
ビクトルが、カフェオレをすすりながらそう言った。
ビクトルのいとこは、神職に就いている。
今は、この街を離れ、ローマとヴァチカンの教会で働いている。
数年前にいとこの母親は他界したのだが、生前は通いの介護サービスを受けていた。
そのサービスというのが、シスターの修道院が仲介しているものだった。
以前、ビクトルがいとこにママのことを相談した時、いとこはこの修道院の住所と連絡先を教えてくれていたのだった。
「ママが転倒しているのを、僕たちが長い時間発見できなかったのは、これで2度目だ。毎日電話するだけでは防ぎようがないし、僕たちが通うのにも限界がある。ここはやっぱり、毎日世話をしに来てくれる人を雇った方がいいと思うんだ。梅子はどう思う?」と、ビクトルが言った。
私はてっきり、ビクトルが「施設に入れよう。」と言うのかと思って、内心ドキドキしていたのだが、彼の決断は、人を雇うことだったので、ホッとした。
そう言うと、ビクトルは「施設になんか絶対に入れないよ。」と言い、私はもう一度ホッとした。
エクトルを迎えに行き、その足でもう一度、ママの家を訪ねた。
ママは、私たちが去った時と同じく、リビングの椅子に座っていた。
「食べてね。」と置いて行ったチョリソ入りの小さなクロワッサンを1つだけ、食べたようだった。
ママは、孫のエクトルが来たことを大層喜んで、エクトルに引っ切り無しに話しかけていた。
いつもだと、ママが何度も同じ質問を繰り返すと、エクトルはしまいには苛立ち始めて、平気でそっけない返事をしたりするのだが、この日は、来る途中で今日ママに何が起きていたかを、ビクトルから聞いていたためか、エクトルはママにとても優しく接した。
後で、帰り道にビクトルと私が「いい子だったじゃん!おばあちゃんに優しかったね!」と、エクトルを褒めたほどだった。
ママは、「なぜだか今日は何も食べたくない。」と言っていたが、私は、夕飯用にさらにバナナとヨーグルトをお皿に用意して、ママの近くに置いた。
ビクトルは、「食べたくなくても、今は食べなくちゃダメだ。食べないから立ち上がれないし、歩けないんだぞ!」と言って、バナナを食べさせた。
ママは、私やエクトルとおしゃべりがしたくて、最初はなかなかバナナを口に運んでくれなかったのだが、やっと食べてくれた。
ビクトルは、続けてヨーグルトも食べるようにと言った。
ママは「まぁまぁ、なんだか私、ビクトルの子供みたいだわ。はいはい、お父さん、食べますよ。」と冗談を言って、ヨーグルトも食べ始めた。
ママの冗談に、私とエクトルは大笑いした。
ママの手は、まだ震えが止まらなくて、時折スプーンを上手に口に運べない様子だった。
うまく口に運べても、そこからまたスプーンをカップに戻す時に、スプーンが服に触ってしまったりするので、最初のうちは、私はママの補助をした。
しかし何度かスプーンを口に運んでいるうちに、調子が戻ってきたのか、おしまいの頃には1人でちゃんと食べ終えるまでになった。
バナナとヨーグルトを食べ終えたのを見届けて、私たちはママの家を後にした。
家に戻ると、長男のアーロンも帰宅しており、子供たちに宿題があるかを確かめると、2人ともないようだったので、それじゃ早速!と、ママの家から持ち帰って来た衣類や寝具のゴミ袋を子供たちにも持ってもらい、私たちは近所のコインランドリーに行った。
子供たちには申し訳なかったが、夕飯は、途中で立ち寄ったスーパーのお惣菜パンを、コインランドリーで食べてもらうことにした。
洗濯と乾燥を済ませると、それらを別の袋に詰め替え、子供たちを一旦我が家へ送り、私とビクトルは綺麗になった衣類と寝具を持って、再びママの家を訪れた。
ママはまだリビングにいたが、「あらまぁ!よく来てくれたわね。でもごめんなさい。今、寝るところだったのよ。」と言った。
ママは、この日私たちが3度も訪れていることを覚えていなかった。
夕方エクトルが来たことも忘れてしまっていた。
ビクトルがママと話している間に、私は洗濯してきたばかりの衣類と寝具を急いでしまい、ママに「おやすみなさい。また明日来るからね。」と言って、帰宅した。
ママはまだ少し、手の震えがあって、歩き方もいまいちおぼつかない様子だったけれど、夕方エクトルと訪れた時よりはだいぶ回復してきたようだった。
私は気が付かなかったのだけど、ビクトルの話では、夕方エクトルと訪れた時は、話す内容もまだ支離滅裂だったらしい。
でも今は、話し方も話す内容も、ちゃんと筋があってまともに話しているとのことだった。
翌日の火曜日、ビクトルは早速、介護サービスの仲介をしているという修道院に電話をして、アポイントを取った。
そして、翌水曜日に早速、私たちは修道院に行って、シスターと面談をすることになった。
介護サービスを取り仕切っているシスターは、時々メモを取りながら、ビクトルの話を最後までしっかり聞いてくれた。
ママは、今でも現役だと思っているので、私たちが掃除や洗濯をするのを嫌がること、人を雇うのも本当は嫌がっていること、同じことを何度も繰り返すが、おしゃべりするのが大好きなこと…。
こんな風に、ママは難しい人なので、経験があって根気があって、優しい人を求めていること。
ビクトルは思いつくまま希望を伝えた。
シスターは、時折「そうね。認知症の方はそういう一面がありますね。よくわかります。」と言って、ママの気難しい性格のこともよく理解してくれたようだった。
翌木曜日から、イースターの聖週間が始まってしまうため、イースターが明けた後で、希望に見合う人を探し、ビクトルに連絡してくれることになった。
シスターから連絡が来たら、私とビクトルで簡単な面接をして、採用を決める…という流れだ。
「いい人に巡り会えるのを祈るばかりだ。」と、修道院からの帰り道、私とビクトルは話した。
本当に、いい人がママのお世話をしに来てくれるといいな。
でも、それでいいんだろうか。
嫁として、本当は私こそが毎日ママのお世話をするべきなんじゃないんだろうか。
私は何のためにこの家に嫁いで来たんだろうか。
でも、こういう考え方は、日本独特の考え方なんだろうか。
この国の人は、個々が個々の人生を楽しむべきというような感覚がある。
ここは日本じゃないから、義母の介護についてそんなに気負わなくてもいいんだろうか。
でも、私は日本人。
どこに住んでいようと、日本人。
昔、私の母が祖母にそうしていたように、私もそうするもんだと思っていた。
本当にこれでいいのかな。
自問ばっかりして何もできない、ダメな嫁だ。
■本記事シリーズのタイトルは、映画「今のままでいて」(1978年公開、イタリア/スペイン)をモジって使わせていただきました。
本シリーズの内容と映画は、一切関係ありません。