今のママでいて 2
前回までのお話はコチラ。
いつだったか、ビクトルの友人が教えてくれた。
国民の平均寿命が長い国は、日本とスペインなんだとか。
日本は、高齢者の介護の問題が深刻だと、よく取り沙汰されるが、スペインでは、あまりそういう話を聞かない。
88歳のママ=義母の介護。
いや、私がやっていることは、“介護”なんて言葉を使うのも恐れ多いほどのことしかやれていないと思う。
ママを介護施設に入れること。
「嫌だ」と言うから施設には入れずに、住み慣れた家でママを1人で生活させていること。
世話をしてくれる人を雇うこと。
これも「嫌だ」と言うから人を雇わずに、私とビクトルでできるだけのことをすること…。
どれを選択しても、果たしてこれがママにとって良いことなのか、良くないことなのか、私はいつも自問ばかりしている。
答えは全然見つからない。
いくらママがそう望んでいるとしても、もうママには物事を判断することはできないから、私たちが選択しなければならない。
でも、私たちが選択した手段は、「本当にこれでいいの?後で後悔しない?」と、なんだか後ろめたいような気分になってしまう。―――
靴を取り替え、コートを羽織りながらキッチンへ戻ると、ビクトルはママの家に電話をかけていた。
でもやっぱりママは電話に出なかった。
「よし。行こう!」と言って、私たちは家を出た。
「昨日も今日も、僕が電話をかけた時間帯は、ママがキッチンで夕飯を用意していたり、今日は今日で朝ご飯や昼ご飯を用意してるだろう時間帯だから、ちょうどタイミングが悪くて、電話に出られないのかもしれない。でも、この目で彼女の無事を見ない限り、やっぱり安心できない。梅子もそう思わない?」
ママの家に向かう道中で、ビクトルがそう言った。
私は、「うん。」と頷いた。
「何事もないといいんだけど…。」と言いながら、私たちは足早にママの家に向かった。
ママの住むマンションが見えてきた。
リビングは、カーテンが閉まったままだった。
ママは、毎晩、寝る時にリビングのカーテンを閉め、翌朝起きてくると、真っ先にカーテンを開ける。
時刻は間もなく昼ご飯の時間。
こんな時間までカーテンが閉まっているのは変だ。
背筋に冷たいものが通った。
マンションのゲートを開け、エレベーターに乗り込む。
日頃から動くのが遅い、このマンションのエレベーターが、今日はますます遅く感じて、ビクトルも私もイライラする。
ママの家の階に着き、ビクトルがママの家のドアの鍵を開ける。
ドアを開けると、家の中は異様に静まり返っていた。
「ママー?ママー?」と、ママを呼びながら、ビクトルと私は家の中に入った。
ママは、寝室にしている、昔のビクトルの部屋にいた。
ベッドにもたれて、放心状態で床に座っていた。
髪の毛はボサボサで、唇がカピカピに乾いていた。
ベッドから引きずり下ろしたであろう毛布やベッドカバーがすべて床に落ちていて、リビングにあるはずのクッションもいくつか散乱していた。
歩く時に使っている杖もまた、毛布やベッドカバーに紛れて床にあった。
スリッパは、片方はママの足元、もう片方は、ベッドの下にあった。
私はすぐさまママの元へ駆け寄り、起き上がらせようと両腕を掴んだのだが、うまく起き上がらせることができなくて、ビクトルに助けを求めた。
ビクトルは、「梅子!スリッパ!スリッパを探して!」と言って、ママを起き上がらせた。
最初、ベッドの下にある片方のスリッパを見つけられなくて、「リビングにあるのかもしれない!」と思い、私はリビングへ走った。
リビングは、外から見えたとおりカーテンが閉まったままだったが、それだけではなく、ママがよく座っている椅子や、その他の椅子が、いつもの配置じゃない位置に寄せられていた。
ママは、おそらくリビングで転倒したのだろう。
そこから寝室まで這って移動したのだと思われる。
リビングでスリッパを見つけられず、寝室に戻ると、ベッドの下にあるのを発見した。
ママは、「寒い。体が痛い。」と言う他は、支離滅裂なことを言い続けていた。
私とビクトルが、ママにスリッパを履かせ、今度は私がママの手を取って、リビングの奥にある、元々ママたち夫婦の寝室だった部屋へ移動させた。
服がすべて汚れていたので、着替えさせることにしたのだが、ママは「服は汚れていない!今朝取り替えたばかりなんだから!」と激しく抵抗した。
あんまり抵抗するもんだから、すでに部屋の掃除に取りかかっていたビクトルを一旦呼んで、ママの身に何が起きていたのか、なぜ服を着替えなければならないのかを説明してもらったのだが、ママはさっきまで自分がどういう状態だったのかを、もうすでに忘れていた。
文句を言い続けるママに、私は何度も「ごめんね、ごめんね。でも着替えなくちゃならないの。」と言って、服を脱がせた。
服を全部脱がせた後、体拭き用のウェットシートで、ママの体を拭いた。
ママは「冷たい!!」と言って、また怒り始めたが、私はなおも「ごめんね、ごめんね。」と言って、体を拭いた。
右側のお尻と、背中と、肩の部分にアザがあるのを発見した。
服を着せ終わると、いくぶん体が温まってきたからだろうか、ママは気分が落ち着いてきた様子だった。
鏡台の鏡に映る自分に気が付いて、「あらま!なんて髪型!ボサボサだわ。」と言った。
私はバスルームに走り、ママの櫛を取った。
それから、ビクトルが掃除をしている寝室に向かい、ママがいつも使っているヘアピンを持って、ママの元へ戻った。
ママの髪をとかしてあげると、ママは左のこめかみ辺りに、ヘアピンで髪を留めた。
それから、「貸して。」と言って、私から櫛を受け取って、ママは右側の髪を自分でとかし直し、ヘアピンで髪を留めようとしたのだが、腕を持ち上げることができず、留められなかった。
今度は私が「貸して。」と言って、ヘアピンを受け取り、右側の髪を留めた。
転倒した時に付いたであろう、右肩のアザ。
おそらくそれが原因で、右腕を持ち上げることができないのだと思った。
湿布か何か、持ってくればよかったと後悔した。
「あら!ママ!美人さんになったよ!」と冗談を言うと、ママは“年寄りにそんな冗談を言うもんじゃない”というような顔で、鏡越しに私を見ながらニヤリと笑った。
ママをリビングに連れて行き、椅子に座らせてから、私はキッチンに行き、紙パックのジュースを1つと、バナナ、それからヨーグルトをトレイに乗せて「お腹空いたでしょう。何か食べよう!」と、ママに差し出した。
ママはフルーツジュースの紙パックを取り、少しずつ飲み始めた。
紙パックを持つ手は、ものすごく震えていた。
「お天気のせいかしらねぇ。今日はやけに腰と背中が痛むのよ。」と言うので、私は再びキッチンに行って、コップに水を注いで、腰痛の飲み薬を持ってリビングへ戻った。
ビクトルは、まだ部屋の掃除をしていた。
廊下には、汚れた毛布やベッドカバーなどを詰めたゴミ袋がいくつも並んでいた。
ママは、ジュースを飲みながら「戦争はいちばん悪いことなのよ。」と、戦争の時の話を始めた。
戦争とは、第二次世界大戦が始まる前に起きた、ピカソの「ゲルニカ」でも有名な、スペイン内戦の話だ。
ママが子供の時、この戦争があった。
ママは今、過去を生きている。
だから、ママが私に聞かせてくれる話はいつも、幼い頃の戦争の話か、パパ=義父が生きていた頃の話、ビクトルの姉が死んだ時の話の内のどれかだ。
同じ話を、何度も何度も繰り返して話すので、例えばビクトルや子供たちは、聞いているとすぐ飽きてしまう。
だけど私は、あまりスペイン語がわからないので、何度も繰り返してもらうと、少しずつ話を理解できるし、ついついその後の第二次世界大戦の方が、インパクトが強い日本人の私にとっては、異国の別の歴史を知ることは興味深い。
それに、願ってももう二度と会うことができないパパの話や、それから、ビクトルの幼い頃の話を聞くのは、とても楽しい。
義姉さんの話は、いつ聞いても悲しいけれど。
でも、この日ママが話した戦争の話は、いつも聞いているような内容ではなかった。
「戦争は何もかも奪ってしまう」とか、「とにかく戦争するのは悪いこと」とか、真面目で暗いことばかりを繰り返し話し続けた。
ビクトルが、部屋の片付けと掃除を終えて、リビングへやって来た。
時計を見ると、お昼時間はとっくに過ぎていて、次男のエクトルを迎えに行く時間が迫っていた。
私とビクトルは、とりあえず、ママがジュースを飲み干すのを見届けて、腰痛の薬を飲むように何度も言い、汚れた衣類や寝具が入ったゴミ袋を抱えて、ママの家を後にした。
ママに「また後でね。」と、別れの挨拶をする時、ビクトルは「練習だ。」と言って、ママを椅子から立たせた。
ビクトルと挨拶を済ませ、私の番になった時、ママは一瞬後ろによろめいて、私は咄嗟にママを抱え、椅子に座らせた。
帰り道、私とビクトルは、「後でもう一度ママの家に行こう。」と話した。
■本記事シリーズのタイトルは、映画「今のままでいて」(1978年公開、イタリア/スペイン)をモジって使わせていただきました。
本シリーズの内容と映画は、一切関係ありません。