裁きは終りぬ
夫ビクトルの前妻シュエが、来月からまた、海外出張に出かける。
今回の期間は、1ヶ月間。
帰って来るのは、4月に入る。
ここスペインの我が街では、来月の半ばに約1週間、学校が祝日休暇になり、今年はその直後にイースター休暇が始まって、また2週間ほど学校が休みになる。
彼女の出張日程は、その休暇のどれもが見事に重なる。
偶然?
そうだね。
偶然と言うなら、そう言えばいい。
去年と今年、同じことが2年続いても、“偶然”と言えるのならばね…。
昨年の今頃、ビクトルは弁護士と共に裁判所にいた。
シュエもまた、弁護士を連れて同席していた。
約1年と4か月近くに渡る、実にバカバカしい交渉と、裁判員からの再三の助言を受け続けてもなお、合意に至ることができなかったビクトルとシュエは、最終的に裁判所の力を借りて、子供たちの養育方法についての契約書を書き直した。
(スペインの離婚後の養育事情については、前記事「スペイン式離婚狂想曲」をご参照ください。)
なぜ、契約書を書き直さなければならなかったのか。
それは、シュエがライフスタイルを変えたから。
海外出張ばかりで、1年のほとんどを海外で過ごしていたシュエが、出張業務を大幅に減らし、国内業務を増やして、子供たちと過ごす時間を確保したから。
なぜ、彼女がライフスタイルを変えたのか。
それは、私がビクトルと結婚したことで、子供たちが私といる時間が自分より多くなるのを嫌ったから。
そのために、彼女が上司に直談判までして業務を変えたことは、彼女がビクトルに自ら伝えている。
「契約書を書き直したい。」
そもそもはじめにそう言いだしたのは、何を隠そう、シュエだった。
その後の1年4か月にも渡る、バカバカしさ極まりない月日の出来事は、また後ほど、別記事で詳しく書くとして、すったもんだの末に、昨年2月にようやく新しい契約書ができ、ビクトルとシュエはサインをした。
新しい契約書では、3月の祝日休暇、最終日1日を除くすべての休暇日と、イースター休暇の後半は、シュエが子供たちの親権を持つ。
“親権を持つ”とはつまり、子供たちと一緒に過ごさねばならないということだ。
ところが、契約書ができて間もない昨年の今頃、ついさっきまでの見苦しい泥仕合なんて、まるですっかり忘れてしまったかのように、シュエはビクトルに連絡してきた。
「海外出張で、3週間ほど留守にする。」と。
それを皮切りに、そこからはもはや、シュエの独壇場だったと言っても過言ではない。
夏休みが終わったばかりの9月に、夫マックスと子供フアンを連れて2か月強。
帰って来て間もなくの11月に再び1ヶ月。
ビクトルに何の報告もなく、12月に2週間。
(契約上、海外出張の際は、シュエはビクトルに出張を証明する会社からの書類提出と共に報告する義務がある。)
「年明けの、中国の旧正月の頃にもう1度」と、子供たちが噂していたが、結局それはなく、その代わりなのか何なのか知らんけど、来月3月から4月にかけて、また1ヶ月だ。
ちなみに、5月も半月から1ヶ月の予定で、出張が控えているらしい。
この不景気まっただ中のご時世に、外国人のしかも女性が忙しく働けるのは、まったく素晴らしい限りだ。
ましてや、日々海を越え国を超えて活躍できるなんて、よっぽどのキャリアウーマンだと思う。
未だスペイン語もままならない私なんて、比べるのもおこがましい。
同じアジア人女性として、単身この国に乗り込んで来た身として、そういう意味では、尊敬の念すらおぼえる。
しかし、しかしだ。
民事とはいえ、裁判所からの契約書を初っ端からそんなに軽視するのもどうなんだ?
「仕事なんだから、しょうがないじゃない!」
「女が子供を養っていくには、お金が必要!お金を稼ぐためには、子供たちにもある程度犠牲になってもらうしかないじゃない!」
これらは、ビクトルが責めた時に、シュエがよく言う言い訳だ。
仕事なのは仕方がない。
でも、彼女は、子供たちが私と一緒にいる時間が増えるのを嫌って、上司に業務スタイルを変えてほしいと直談判した過去がある。
実際、その訴えは通って、彼女の業務スタイルは変わった。
離婚したシングルマザーが、子供を養うために、お金のために、子供と過ごす時間を削ってまで働かなければならない事情も理解できる。
でも、彼女は今、新しい夫がいる。
夫の収入は、彼女の収入に比べたら雀の鼻クソにも満たないかもしれない。
でも少なくとも、夫にだって収入がある。
子供たちを養うためのお金が足りない?
じゃあ、なんで、ビクトルと私に「招待したいんだけど…」なんつって、これ見よがしに結婚式を盛大に挙げた?
仕事休んで、ビクトルと私に子供たちを押し付けて新婚旅行に行った?
「もうモデルが古くてダサい」と言って、夫マックスの愛車だった車を売りとばして新車を買った?
あぁ、そうそう、子供ももう1人増やしたよね?
「子供が増えて部屋が足りない」つって、離婚時にビクトルから譲渡させた家売りとばして、1人1部屋でもまだ余るぐらいのデッカイ家、即買いしたよね?
子供たちは常に、母親から最新のゲームソフトを買ってもらってるって言ってるよ?
そんな贅沢しなければ、子供2人ぐらい、無理に海外出張しなくたって十分養えるだけ貯えられるよね?
なんてこたあないのだ。
彼女は、ただ、一昨年までは、“ママモード”、“主婦モード”にハマっていただけ。
契約書ができた去年頃から、“キャリアウーマンモード”にマインドチェンジしただけだ。
彼女が海外出張しなければならない時、以前は、「私は国外なんだから、ビクトルが子供たちの面倒見るのは当然でしょう?」と言って、彼女はいつもビクトルに子供たちを押し付けた。
ビクトルが私と結婚して、彼女も結婚してからは、「私の夫は、子供が大好きな人だから、いくら忙しくても子供の面倒を見るのはかまわないって言ってくれてるの。ビクトルは昼寝でさぞ忙しいでしょうから、私の夫が子供たちの面倒を見るから安心してね。」と言って、子供たちはシュエの夫マックスと共に過ごす。
子供たちがマックスと過ごせば、裁判所が口を酸っぱくして言う、“子供が父親・母親と同等の時間を過ごす権利”が、チャラになると思っている。
彼女の“子供たちと過ごす時間”はチャラになると思っている。
子供を持つ夫婦が離婚したら普通、父親も母親も、子供を手放したくない、できることなら親権は私が持ちたいと思うもんだと思っていた。
でも、シュエは違う。
子供たちを何が何でも手放したくない!と、稀には思っているらしい。
稀には。だ。
しかし、そのほとんどは、できることならビクトルが、できることなら自分の再婚相手が面倒を見てほしいと思っている。
口にはしないが、態度は見え見えだ。
夫ビクトルが、「来週、弁護士にアポイントを取る。」と言っている。
「裁判も辞さない。」とも言っている。
弁護士の回答次第だけれど、また、あのばっかばかしい、シュエとの話し合いや交渉が始まる可能性があるのかと思うと、さっき食べたお昼ご飯を吐きそうになる。
続編はコチラ。
■本記事のタイトルは、映画「裁きは終りぬ」(1950年公開、フランス)をモジることなくそのまんま使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。