スペイン式離婚狂想曲
いろんな記事でちょいちょい触れているが、我が夫ビクトルは、バツイチだ。
おまけに子連れだ。
残念ながら(!)私は離婚経験がないので、その方面には詳しくなかったが、ビクトルに知り合った頃、彼の壮絶な離婚劇を見ていたため、スペインの離婚についてはざっくり学んだ。
スペイン…というか、欧米諸国の離婚と、日本の離婚の違いを簡単に言ってしまうと、
日本の離婚のシステムは、他の国々と比べると、かなり特殊っぽい。
中でも決定的に日本の法律と違うのは、親権だ。
子供がいる場合、両親が離婚すると、基本的に親権は50/50。
例えば両親の片方が、重い病気だとか、子供を虐待している事実があるとか、子供が生きる上で差し迫った支障みたいなものがない限り、もう一方が100%親権を持つということは、基本ない。
こっちの裁判所は、“子供は父親と母親と過ごす権利がある”ことをものすごく重視する。
では実際に離婚後、子供たちはどのような家庭環境になるのかというと、例えば月の前半を片方の親元で過ごし、月の後半をもう一方の親元で過ごすことになる。
“月の半分”というのは、本当に例えばの話で、両親の仕事の都合、住む場所の都合…なんかによって、2週間ごとだったり、1週間ごとだったり、様々だ。
子供たちが夏休みや冬休み、イースターなどの長期休暇に入ると、また状況が変わる場合もある。
普通の日と同じように、月の半分ごととか、1週間ごと、2週間ごと…を継続している両親もいれば、休暇の日数をきっちり半分にして、前半と後半に分けて子供たちが父親の家と母親の家を移動することもある。
ビクトルと前妻の場合、
離婚当初は、前妻の仕事が海外出張の多い仕事で、1年の半分以上はスペイン国外だったので、普通の日はほとんどすべて、ビクトルが親権を持ち(子供の世話をし)、夏休みや冬休みといった長期休暇はすべて、前妻が親権を持つ(子供の世話をする)ことにしていた。
普通の日は、例えばたまに前妻がスペインに帰って来て、しばらく滞在できる時は、前妻が子供らを預かることもあった。
(嘘の帰国日や出国日をビクトルに告げて、前妻が極力子供らの世話をする日が短くなるように画策していたことも多々あったが。)
当時の弁護士曰く、ビクトルと前妻の親権のやりとりは、かなり特殊なケースだったようだ。
その後、ビクトルが私と再婚することになり、それを知った前妻も急いで現夫と再婚し、なんだかんだあって、現在は、毎週平日の月曜~金曜をビクトルが、金曜の午後~日曜の夜を前妻が親権を持つことになっている。
夏休みは、7月と8月の2か月間を丸々1ヶ月ごとに交換。
冬休みは12月と1月に分けて。
イースターは日数をきっちり半分に分けて前半と後半で親権を持つことにしている。
…とまぁ、こんなふうに、親権も半分こなら、養育費も当然、半分こだ。
銀行で共通名義の口座を開設し、そこに月々、離婚時に両者で決めた金額を振り込む。
振り込んだお金の使い道は、これもまた離婚時に両者で決めるので、人それぞれだが、ビクトルと前妻の場合は、教育関係(学校への様々な支払いや、習い事の授業料など)と、医療関係(治療代や薬代など)でのみ、使用できるようにしている。
お金絡みでもう1つ。
慰謝料の話。
スペインでも、離婚時に慰謝料を請求する裁判は起こせる。らしい。ビクトル曰く。
ただし、夫から妻へ慰謝料請求した場合の成功率は、妻から夫へ慰謝料請求した時よりも、各段に難しい。らしい。あくまでもビクトル曰く。
スペインの離婚裁判の裁判官は、女性擁護派が多い。らしい。
(…と言っても私たちが住む州の話だけかもしれないが)
ちなみに、ビクトルと前妻の離婚を決定付けたのは、前妻の浮気だった。
しかし、ビクトルは裁判できるだけの証拠を集めていなかったので、慰謝料請求はしなかった。
「離婚したい!」と裁判を起こしたのは、ビクトルの方からだった。
実際2人が離婚する際、ビクトルは前妻から1銭ももらうことはなかった。
が、しかし!
前妻は、離婚を受け入れるかわりに、ビクトル家が所有していたマンション一室の譲渡を要求!
このマンションは、彼らが別居生活をしていた時に前妻が使っていた部屋だった。
市の中心地で交通の便も良く、少し手狭だが、ビクトル家所有の物件の中では立地条件がすばらしく良い物件だった。
このマンションの名義は、元々、ビクトル、ビクトルの母親、ビクトルの甥っ子の3人の名義だった。
ビクトルは母親と甥っ子に頭を下げ、前妻への譲渡手続きをした。
後妻だからこそ、そして私も多少なりともがめついからこそ思うのだろう。
このマンション譲渡の一件については、何度聞いてもモヤモヤする。
なんでよりにもよってあんなヤツに、家なんかあげるかなー。
裁判でとことん戦えば、家もあげることなく無一文で放り出せたかもしれないのに。
そう言うと必ず、ビクトルは言う。
「あの時はとにかく、彼女の呪縛と悪夢から解放されたかった。
家を譲渡すれば、彼女はすんなり離婚を受け入れた。
この国はとにかく男が不利なんだ。
僕があの時できた最善の策は、彼女に家をあげることだったんだ。
家さえあげれば、平穏な生活が戻ってくると思っていたんだ。」と。
■本記事のタイトルは、映画「イタリア式離婚狂想曲」(1961年公開、イタリア)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。