梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

ライフ・イズ・ビューティフル


「いいか、梅子。世界は君が思うよりもっともっと素敵なことで溢れている。君の人生は、これからいくらでも素晴らしくなるよ!」

ルイスは、電話の向こうでそう言った。

 

 

去年、夫ビクトルがいなくなってしまった後で、私はとあるスペイン人男性と友達になった。

彼の名前はルイス。

美人な奥さんと3人の子供たちと、マドリードに住んでいる。

 

彼は、超がつくほどポジティブで、前向きで、行動力が半端なく、こんな知り合ったばかりの、どこの誰かもよくわからないような私のことを、「頑張れ!頑張れ!」と今でもずっと背中を押し続けてくれている。

 

でも正直、彼のポジティブさについて行けない時もある。

ルイスは時々、「これからは、梅子の人生の第2章が始まるんだ。ノートはまだ真っ白だ。君がやりたいこと、好きなことを、自分の手で書いていくんだ。それって素敵なことだろう?」と言う。

去年ビクトルを失って、それまで完璧だったビクトルとの人生は突然幕を閉じた。

ビクトルなしのこれからの私の人生なんて考えたくもない。

少し立ち止まって、いや、人生も何もかも放り投げて、私自身もこのまま永遠に幕を閉じたいのに、ルイスは「そうじゃない、梅子。君は足を止めてはいけない。ビクトルとの物語はもう終わったんだよ。次は君自身の物語を書いていかなくちゃならないんだ。」なんて、グサグサ心をえぐるようなことを何度も言うもんだから、胸倉掴んでぶっ飛ばしたくなることもある。

 

それでもルイスは信念も言うことも曲げない。

彼のこうしたキラッキラなポジティブマインドが、どん底真っ暗闇の私には眩し過ぎて、時々「ほっといて!」と目を覆いたくなることもあるけれど、でも、こういう人が辛抱強く傍にいてくれたから、私は去年を乗り越えることができたし、少しずつ前を向いて歩けるようになったんだと思う。

ものすごく皮肉だけど、去年出会った人たちとのこうした出会いは、すでに私の次の人生をつくり上げ、美しく彩っている部分だ。

 

さて、そんなわけで、これも自分の人生を歩くリハビリだと思って、「今週のお題」にも挑戦しているわけだが、ビクトルや子供たちがいた頃の生活の中で、強いて私が「しなきゃ!」と囚われていたことは、おそらく毎日の晩ご飯や学校に持たせる子供たちのおやつの献立と支度のことや、子供たちの学校に着て行くユニフォームを考えて洗濯するぐらいのことだったと思う。

ビクトルとアーロンが喧嘩をして、「私が仲裁に入らなきゃ!」と頑張ってみても、結局空回りして事態は悪くなる一方だったし、「良い母親にならなきゃ!」も同じく、空回りしまくりの数年間だった。

 

だけど、ビクトルがいなくなり、子供たちがこの家から去ってしまった今は、何から何までが「しなきゃ!」に囚われている毎日だ。

 

ビクトルの手続きをしなきゃ。

書類を揃えなきゃ。

あの役所に行かなきゃ。

名義を変えなきゃ。

スマホを契約しなきゃ。

銀行口座を開設しなきゃ。

弁護士に連絡しなきゃ。

友達を作らなきゃ。

たまには外の空気に当たらなきゃ。

買い物に行かなきゃ。

仕事を探さなきゃ。

スペイン語を覚えなきゃ。

仕事を片付けなきゃ。

家も片付けなきゃ。

猫の助のご飯を買わなきゃ。

これからのことを考えなきゃ

自分の人生を考えなきゃ…。

 

囚われすぎて、縛られすぎて、毎日が息苦しい。

前記事「うつろいの季節(とき)」にも書いたように、時々発狂して何もかも放り出したくなる。

お金のこと、生活のこと、仕事のこと、これからの人生のこと…、なーんにも考えずに、「今日の夕飯は何作ろっかなー♪」と、のほほんと暮らしていたあの頃に戻りたい。

 

でもその一方で、その分ビクトルがずっとずっと1人で、そういう面倒くさいことに頭を悩ませ、こなしていてくれたのだと思うと、私は本当に役に立たない嫁だったと、申し訳なくなる。

ビクトルがしていた苦労を、今、身に染みて味わっている。

それが今の私にできる唯一の罪滅ぼしでもあるかのように、味わっている。

 

 

ビクトルがいなくなってしまったこの世界は、私にとってはもう色がない。

正直、何の面白みも、喜びもない。

 

だけど、こうして息をし続けなければならない以上、あんまり真っ黒な日々を続けるのもさすがにつまらない。

そこまで徹底して一生落ち込み続けられるスタミナもない。

だからルイスの言うように、自分の人生に色を付けてもいいんじゃなかろうかと、少しずつ思えるようになってきた。

 

そう思えるようになってから、例えば久しぶりにお肉を食べてみた時、「美味しい…」という言葉が、思わず口をついて出るようになった。

ベッドに横になった時、猫の助が私の足と足の間にやって来て寝息を立て始めたのが聞こえて、私はその重みと温もりを感じて「幸せだなぁ…」と、つい呟くようになった。

 

ビクトルがいないのに、お肉を美味しいと思ったり、猫の助とのひと時を幸せだと思ってしまうことに罪悪感のようなものもある。

私だけこんなに人生を楽しんでいいのだろうか、そんな葛藤がある。

ビクトルはもうお肉も食べられないし、猫の助の温もりを感じることはできないのに、私だけがのうのうといい思いをしていいのだろうか。

ビクトルに申し訳ない。

 

人生を考えたり楽しむことは、今の私には苦行だ。

だけど、残念ながら生きている以上はこんな思いもしなければならない。

 

今これを書いている間も、「しなきゃ!」なことは、脳みそからこぼれ落ちるほどたくさんあって、考えるだけで気が滅入る。

実は昨日からお湯の出が悪い。

知り合いに助けを求める連絡をしないとだけど、今日は日曜日だから邪魔したくない。

でも連絡しないとお風呂に入れない…。

 

「しなきゃ!」ばかりの毎日に疲れ、「したい!」と思えることも考えてみようと思いたち、ある日、ノートにリストを作ってみた。

「2023年 やりたいこと」と題したそのリストには、思いつくままに、やってみたいことを日本語とスペイン語で書いている。

「2023年」と書いてはみたが、今年中にやりきれなくてもいい。

ある日、カウンセリングで先生にこのリストを見せたことがあったけど、「うん!とってもいいアイデアね!」と言ってもらえた。

 

リストに「ピアノを習いたい」と書いてみたのだが、私の家にはピアノがない。

ピアノを弾くためには、買わなければならない。

ある日楽器店に立ち寄り、欲しいなと思うメーカーのデジタルピアノの値段を見たら、予想はしていたがやっぱりびっくりする値段だった。

今のお給料の半分以上を持って行かれる…。

家に帰ってから、リストに「ピアノを買うために、毎月◯◯ユーロ貯金する」と加えた。

でも、貯金するにはもう少しお給料が必要になってくる。

「◯◯ユーロを貯金するために、月◯◯ユーロ以上お給料をもらう」と、さらに加えた。

 

あれ、ちょっと待って。

これは「したい!」ことのリストであって、「しなきゃ!」のリストではない。

私はリストのタイトルの横に、「“やりたいこと”は“義務”ではない!」と注意書きを付け加えた。

 

去年から続く「しなきゃ!」「しなきゃ!」にどっぷり浸かっている日々は、完全に私のマインドを洗脳しているなと思った。

だからと言って、やりたいことを叶えるためには、事前の計画立てや下準備が必要なことだってある。

「したい!」と「しなきゃ!」は、紙一重で難しい。

 

友人のマリアにもこのリストを見せた。

マリアは「やりたいことが結局やらないといけないことになってるじゃないのー!」と大笑いした。

「いい?梅子。やりたいことっていうのはね、あなたが日々の悩みやストレスをその時だけ忘れることができて、心がリセットできたりリラックスできたり、リフレッシュできるようなことよ。ピアノなんて習い始めたら、また1つ新たな課題ができてストレス溜まって、今の状況の梅子だと押し潰されちゃうわよ?」

 

なるほど。

でもピアノ弾いてみたいんだけどな…。

実家に父が買ってくれたデジタルピアノがまだあって、私は小中学生の時、ジブリの曲の楽譜で独学で弾いていた。

あの時弾いていた曲は、もう指は全然覚えてないけど、別にレッスンに通わなくてもいいから、好きな曲の楽譜を取り寄せて、またあの時みたいに楽しく弾いてみたいんだ。

 

マリアにはそう言われたものの、貯金は一応頑張っている。

上手くいけば、夏の終わりか秋頃にはピアノを買えるかもしれない。

 

お湯が出ない件を、さっき思いきって「日曜日なのにごめんね!」と、知り合いにメッセージを送ってみた。

「心配しすぎ笑。暇してたから大丈夫。明日朝一で知り合いの水道屋に電話してみるわ。解決策ならいくらでもあるから、そんなに心配しなさんな❤」と、速攻で返事が来た。

 

私が見ているこの世界には、もう色がない。

だけど、ビクトルや私の代わりに、みんながこうして色をつけてくれる。

 

ありがとう。

 

■本記事のタイトルは、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(1999年日本公開、イタリア)をモジることなくそのまんま使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。

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