限界つれづれ節
日曜日。
ビクトルも私も盛大な朝寝坊をした。
2人共とにかく怠惰全開。
お昼ご飯を作るのもなんだか億劫だし、そもそもまだお腹が減っていないしで、夕方近くまでそれぞれ好きなことをして過ごした。
日もだいぶ傾いてきた頃ようやく空腹になり始め、2人で近所のケンタッキーへ出かけた。
週末の怠惰全開になる日は、私たちはこうしていつもケンタッキーへチキンを買いに行く。
近所と言っても、歩いて10分ほどかかるのでちょうどいい散歩にもなる。
ケンタッキーに行った後は、急いで帰宅して熱いうちにチキンを頬張るでもなく、その近くの中国人経営のカフェに立ち寄りカフェコンレチェをすするのが、いつものお決まりコースだ。
このカフェは、小さな公園に沿ってぐるっとテラス席があって、いつもたくさんのお年寄りたちがお茶をしている。
ここだけ時間がものすごくゆっくり進んでいるような、そんな雰囲気だ。
「ここ最近、日曜日の午後が来るのが苦痛じゃなくなってきたんだ。梅子はどう?」
一口目で思いのほか熱々だったカフェコンレチェに驚き、二口目を怖々すすっていると、ビクトルがふいにそうたずねてきた。
「あ、そういえばたしかに。私も胃が痛くならないし、どんよりした気分にならない!」と、私は言った。
今まで、私たち夫婦にとって日曜日は1週間の中で最も嫌いな日だった。
いつも午後からその嫌な緊張感が始まって、子供たちが母親シュエの家から帰って来る時間帯が最もピークに達する。
それもこれも、シュエのせいだった。
子供たちがまだ小さい頃は、シュエか彼女の夫マックスが子供たちを我が家まで送らなければならなかった。
ということはつまり、いやでも毎週日曜の夜は、シュエが(終盤はマックス1人だけで…だったが)我が家の前まで来ていたことになる。
しかも、初期の頃は、ただ単に「子供を使うな!」というシュエの身勝手なルールにより、ビクトルが毎回階下まで降りて行って、子供たちの学校のユニフォームの入った袋をシュエから受け取らなければならなかった。
せっかく親同士が顔を合わせるのだから、週末の子供たちの体調に何かあったりすれば、その時にきちんと情報交換すればいいものを、シュエは決してそんなことはしなかった。
我が家のマンションのエントランスでシュエが口を開く時はいつも、その前にビクトルと何かしらの揉め事があって、“話す”のではなくシャウトしてビクトルを罵る、だった。
それに、その頃のシュエは本当にやりたい放題だったから、養育権の契約上での子供たちを送り届ける時間帯など守ることは稀で、何時間も早く送り届けて来たり、そうかと思えば待てど暮らせど来なくてやっと…なんてこともざらにあった。
当時はすでに、シュエからのメール、メッセージ、電話、すべての着信が私たちにはもはや恐怖でしかなく、そういった着信が多いのが特に日曜日だったから、日曜の午後になると自然と私たちは言い知れぬ緊張感に包まれることになった。
アーロンが中学生になったと同時に、金曜の学校へのお迎えをシュエが勝手に辞めた。
子供たちにバスのカードを買い与え、子供たちだけでシュエの家に行くようになった。
さらに、アーロンが高校生になると、再びシュエは勝手に子供たちの我が家へ送り届けるのも辞めた。
彼らがマックスの実家のある村で過ごした週末以外は、子供たちは自分たちだけでバスで我が家へ帰って来るようになった。
ビクトルに相談もなしに、シュエが勝手に子供たちだけでバスに乗らせ、日曜の夜に我が家へ帰らせることに関しては、言うまでもなく呆れるばかりである。
「子供たちが○時頃家を出て○○からバスに乗ったから、よろしく。」なーんていう連絡は、未だかつてシュエからもらった試しがない。
万が一バスが事故にでも遭ったら、夜道を子供たちだけで歩いて、万が一変な人にでも絡まれたら、シュエは一体どうやって責任を取るつもりだったのだろう。
今でもたまにビクトルと話すのだが、もし子供たちがバスで母親の家と父親の家を行き来させるのを、ビクトルが言い出して子供たちにやらせたとしたら、おそらく…もなにも、絶対にシュエは「子供たちに何かあったらどうする!!」と、金切り声を上げて猛反対しただろう。
「だったら、あなたが子供たちの送り迎えをしなさいよ!」とでも言って、待ってましたとばかりにビクトルに押しつけようとしたに違いない。
ビクトルが決めたことには「子供が可哀想!」と言って絶対屈しないが、自分が決めたことはシレーっと子供にだろうが何だろうが強行する、これがシュエである。
だが、これによってシュエがもう2度と我が家の呼び鈴を押すことはなくなり、私たちは少し気が楽になった。
おそらく彼女本人としても、我が家に毎週来なければならなかったのは苦痛だったんだと思う。
(だから勝手に辞めたのだろうけど。)
さて、シュエが来なくなったのはいいが、その代わりに私たちに待ち受けていたのは、アーロンのあの、超絶レボリューション(思春期の壮絶な反抗期)だった。
日曜日の夜、アーロンが気分良く我が家に帰って来て、ビクトルや私と楽しく話をする…なんていうのは、奇跡に近いほど本当に稀で、大概がムスーっとぶすくれた顔で帰って来た。
当然、出迎えたビクトルにも私にも顔を合わせようとしないし、こちらが話しかけても「あぁ。」とか「うん。」とか、それだけ。
一目散に子供部屋に行ってしまう。
それとは裏腹に、一通りビクトルや私とお喋りを終えたエクトルがようやく子供部屋に着替えに行くと、アーロンは待ち構えていたようにピシャリとドアを閉め、エクトルにゴニョゴニョモニョモニョと話す、アーロンのくぐもった声だけが聞こえてくるのだった。
帰り道からずっと何やらエクトルと話に盛り上がりながら帰って来る日は、ビクトルや私の「おかえり。」という言葉もかき消す勢いで話しかけるスキすら与えず、これ見よがしに楽しそうにお喋りを続け、そのままエクトルと子供部屋に入って行く…なんていうこともよくあった。
このことを、私たち夫婦は今まで1度も愚痴ることはなかった。
だけど、カフェで「日曜日が苦痛じゃなくなった。」と言ったビクトルは、この時のことを思い出したようで、「アーロンが子供部屋でいつまでもエクトルと内緒話をしている時、あの時、実は僕の中では気が狂いそうだったんだ。」と話した。
「私もだよ。」と相槌を打った。
私も当時は当然良い気分ではなかった。
だけど、ここでいきなり子供部屋のドアを開けて、変に子供たちの話に割って入って行くほどの度胸はなかった。
アーロンが楽しいならいいじゃないと、いつも心の中で自分に言い聞かせていた。
でもそれは結構キツかった。
超絶レボリューション以降のアーロンは、大抵、木曜日(翌日から母親の家に行ける日)となると、何かしら高圧的なことを言い出して、私たち夫婦と衝突することが多かった。
「今日は木曜だから、揉めたくなかったのに…。」が、当時の私たちの口癖だった。
そして、日曜の夜は前述のとおり。
アーロンがやっと私たちに心を開き始めるのは、いつも火曜日ぐらいからだった。
アーロンの超絶レボリューションは、シュエからの攻撃と同等の威力があった。
シュエには毎日顔を合わせているわけではないけど、アーロンの場合は平日は毎日一緒に生活しなければならない。
そうこうしている間に、私は睡眠障害に陥った。
アーロンがベッドに入るまで、病気でもない限り私は自分のベッドに行けなかった。
ようやくベッドに入っても全然眠ることができなくて、今思えば自分でもおかしいと思えるのだが、子供部屋の方からちょっとでも物音がすれば、ガバッと飛び起きていた。
その頃、我が家の2つのバスルームのリフォームをしたのだが、その時に家中のドアも新調した。
当時の我が家のドアは色が暗くて、そうでなくとも廊下などは日が届かず昼間でも真っ暗なのに、ドアのおかげでますます真っ暗だった。
しかも、子供部屋と私たちの寝室のドアには、昔、シュエがまだこの家で暮らしていた時に貼り付けたらしい中国特有のシールの残骸が残っていた。
「福」という文字が逆さまになった、赤と金のシールである。
子供部屋のドアには、中国の伝統的な髪型と服をまとった男の子と女の子の大きなシールが貼ってあった。
家中のドアを取り換える時、ビクトルは「シュエがこの家にいた痕跡をすべて取り去りたい。」と言っていた。
新しいドアには、2つのバスルームにも鍵を付けたが、書斎と私たちの寝室にも鍵を付けた。
バスルームの鍵はバスルーム専用の、室内でつまみを捻って開け閉めするタイプの鍵だが、書斎と寝室は、鍵穴があって別途の鍵で内外から開け閉めするタイプの鍵にした。
鍵はそれぞれ、ビクトルと私だけが持った。
なぜ書斎と寝室に鍵を付けたのか。
それは、悲しいかなアーロン対策だった。
書斎には、ビクトルのデスクの引き出しにお金が保管されている。
超絶レボリューション真っ只中だった頃のアーロンは、時々私たちの不在時に、勝手に書斎や私たちの寝室に入って物色することがあった。
そしてある日、とうとうお金が保管されている引き出しの中が物色された。
上手くやればいいものを、わざとか?と思うほどボロを残すのがアーロンだった。
お金は無事だった。
だけど、これがきっかけでドアに鍵を付けることを決めた。
そして、ドアを新調してからは、毎晩寝る時は書斎のドアに鍵をかけ、外出する時は書斎と寝室に鍵をかけた。
特に毎晩の就寝する時に書斎のドアの鍵をかけるのは、ビクトルにとっても私にとっても決して気分の良いものではなく、苦痛の何者でもなかった。
結局あの時、アーロンはお金を盗んだりはしなかったけれど、この一件以降、私たちがアーロンをまた別の意味で信用できなくなってしまったことが、何よりも悲しかった。
たまに、鍵をかけているところをアーロンに見られた時は、気まずいことこの上なかった。
そんな日々を過ぎ、そしてアーロンは今年の9月から母親の家で暮らし始めた。
「僕は本当に最低な父親だと思う。だけどアーロンがシュエと暮らし始めて心底ホッとしたんだ。気分が落ち込むことがなくなったし、日曜日が来るのが怖くなくなった。」
ビクトルが言った。
そうだ、私も最低な継母だ。
ビクトルと同じように、最近はよく眠れるようになったし、日曜日に胃がキリキリすることもなくなった。
「僕たちだけじゃなくて、きっとアーロンもそうだと思うんだ。きっとあいつも、日曜日に僕の家に帰って来なければならない憂鬱から解放されたと思う。」
私はうんうんと頷いた。
「もしかしたら今頃、いちばん貧乏くじを引いたのは私だってシュエが思ってるかもしれない。だけど、アーロンと僕たちにとってはこれがお互い幸せになれる最善の選択だったんだよ。そう思ってやっていくしかない。」
「そうだね。」と、私が言った。
カフェコンレチェを飲み終えて、私たちは席を立った。
そろそろ空腹が限界に来て、さっきからお腹がグゥグゥ鳴っている。
帰ったらまずこのチキンを食べて、その後はベランダから洗濯物を取り込んで畳まなくちゃ。
エクトルが飲むジュースはまだ冷蔵庫にあったかな?
なかったら、あいつが帰って来る前にコンビニに行こう。
もうすっかり日が暮れて少し肌寒い帰り道、ビクトルと私はそんなことを話しながら家路についた。
日曜日の苦痛から、私たちは解放された。
だけど、やっぱりアーロンと良い関係を築けず、仲良く暮らし続けることができず、シュエに放り投げてしまったこの罪悪感は、これからも一生背負い続けていく。
■本記事のタイトルは、映画「玄海つれづれ節」(1986年公開、日本)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。