梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

がんばっていきまっしょい!

時がたつのは本当に早いですね。

 

大変、大変、ご無沙汰しておりました。

 

このブログをおろそかにして、早2年…。

筆不精にもほどがあり、弁解の余地もございません。

 

私はまだ、スペインのとある地方都市に、変わらず在住中です。

夫ビクトルとの結婚生活も、おかげさまで何の問題もなく、ささやかに、何の変わり映えもなく、ごくごく普通に日々を過ごしております。

 

さて、今、世界はどエラいことになっていますね。

ここスペインも、もう日本のYahoo!ニュースでも、スペインの現状が時々トップニュースとして上がるほど、ご覧の通り…の惨状です。

3月31日の時点で、9万4千人の感染者数が、たった1日過ぎた今日、とうとう10万人を突破しました。

毎日毎日、100人単位、1000人単位で感染者が増え、死亡者が増え、3月14日から、スペインは国内全土で緊急事態宣言が出され、3月25日頃にさらに15日間の延長が発表され、一般人の我々は、いわゆる“自宅軟禁生活”を余儀なくされています。

 

名ばかりの“専業主婦”なもので、元々平日も休みも関係なく、最低限の家事をチャチャーっと済ませたら、あとはもう自堕落に日々を送る生活でしたから、私個人としては、今現在の生活も大した違いはないのですが、それにしても、時間を持て余す!

 

というわけで、いい加減、ブログでも再開しようかな、時間もあることだし…と、今さら感満載でこうして久々にキーボードをパチパチ叩いている次第です。

 

今日は、お久しぶりのご挨拶がてら、記録の意味も込めて、緊急事態宣言発令後の日々の出来事を書こうと思います。

 

 

今回の、コロナウイルス騒ぎについて、個人的に思うことはたくさんあります。

 

2月は、ニュースを見る度、ビクトルの友人たちから話を聞く度、この国の人々の危機感のなさに、怒りと諦めしかなかったように思います。

また、その頃スペイン含むヨーロッパ各国は、自身の危機を案ずるよりも、アジア人叩きに躍起になっていましたので、本当はマスクを付けたいけれど、人々の目が怖くて、私もマスクを付けずに外を歩いていました。

 

もう今さら地名を隠したところで、バレバレなのは百も承知で、それでも果敢に地名を隠しますが(なにそれ笑)、私たち家族が住むこの街では、街を上げての大祭が3月にあり、1日になった途端から、爆竹が鳴り響き、通りのあちこちでチュロスの屋台が立ち並び、一気にお祭りムードになります。

お祭り期間中、毎日午後には、市庁舎前の広場で盛大な爆竹ショーが開かれるので、この時期のセントロと旧市街には、主にヨーロッパ各国から集まった観光客で、身動きが取れないほどごった返します。

 

私は、それも懸念していました。

こんな時期に、よその国からも訪れる大勢の人々と、よりにもよって密集なんかして大丈夫なのだろうかと。

 

2月最終週末のある夜、私とビクトルは、ビクトルの友人を数人我が家に招待して、みんなで古い映画を見た後、近所のレストランに移動して、食事をしました。

食事中、専らの話題はもちろん、コロナウイルスの話題でした。

でもやっぱり、彼らの話し方からは、まるでこのウイルスが、スペインになんぞ上陸するはずはないとでも言わんばかりに、謎の余裕が漂っていました。

 

いつもならば、スペイン語を上手く操れないので、こういう時は終始、ほぼ聞き手に徹する私ですが、今回ばかりはぜひ、ビクトル以外の他のスペイン人の生の声も聞いてみたいと思い、「あの市庁舎前広場の爆竹ショーは、本気で開催するつもりなんだろうか?」と、思いきって切り出しました。

 

すると、1人が言いました。

「もちろんやるに決まってるじゃないか!それに今年は暖冬だし、3月になればもっと気温が上がるんだから、ウイルスは生きていられないよ。大丈夫、大丈夫!」

そう言いながら、ビールをグイッと飲んだこの友人の職業は、大学の教授。

よりにもよって、このグループの中で一番の有識者であろう彼がそう言うとは…。

本当に予想外でした。

 

実は、2年前の夏、日本に里帰りした時に、私は風邪をこじらせ、マイコプラズマ肺炎と百日咳と、あと何だったけ…もう1つ別のウイルスにも、同時に一気に感染しました。

レントゲンで見た私の肺は、両側にとんでもない量の水が溜まっていました。

滞在日数のほとんどを療養に費やし、一体何をしに日本へ行ったもんだか…、ウイルスなので誰にもうつしてはならないと、友人たちとの再会もすべてキャンセルしました。

とにかく毎日息苦しく、ちょっと動いただけで咳が止まらず、もちろんどこにも出かけられませんでした。

ただただ両親を心配させただけの、散々な里帰りでした。

 

もちろん、この日本帰省の時の話は、ビクトルを通して今ここにいる友人たちすべての耳に入っているはずです。

それなのに、“気温が上がればウイルスは生きていられない”と宣う大学教授…。

教授!あなたがそれを言いますか!!

 

「でもさ、でもさ!」と、私は負けじと続けました。

「ところで今、近所のスーパーも薬局も、手消毒のアルコールジェルが売り切れで手に入らないんだけど、みんなの家の近所ではどう?まだ売ってる?」

すると、今度は別の友人たちが、口を揃えて、「最近スーパーに行ってないし、わからないなぁ。ていうか、アルコールジェルはスーパーにもあるの?知らなかったー!」と、頭を掻きながらへへへと大笑い。

 

口には出さなかったけれど、あぁ、この国は本当にもうダメだ…と、思いました。

当時は、イタリアで感染者数がどんどん増えだした頃でした。

それにも関わらず、首相までもが「国境封鎖なんて大袈裟!」と言い切る始末で、ここまでの楽観主義を、別の機会で逆に見習いたいけど、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう!と、1人やきもきする日々でした。

 

3/1になって、主にセントロの、そしてセントロから少し離れている我が家の近所の中国人経営のバルやレストランが、続々と“休み”になりました。

ぴっちり閉められたシャッターには、「休暇を取るので、しばらく営業しません。」と、張り紙がありました。

「お祭りが終わる日まで」と書いてあるバルもあれば、「3/31まで休みます」と書かれているバルもありました。

「こんな時に休暇取ったって、中国には帰れないだろうし…。どうしたんだろうね。」と、張り紙を見ながらビクトルと話しましたが、後になって、とある地方紙のサイトで、一部の中国人の商業団体や個人の中国人バル・レストランのオーナーたちが、「市の楽観的な対応策は信用できない。自分たちは自国中国で採られた対応措置に習うことにする」と、自主的に営業を停止させたということを知りました。

 

中国人は賢い。

だからこうして、様々な国で生き延びていられるのだなと、改めて感心しました。

 

3月に入ってから数日、とうとう、…というかやっと、EUが動きました。

それに伴って、やっと、スペイン政府もいよいよもってこの国も危ないと感じ取ってくれるようになりました。

 

そしてとうとう州政府も動きだし、3/5、我が街のお祭りの延期が発表されました。

それまでのん気にお祭り気分を満喫していた市民が、翌日からスーパーへ殺到し、我が家の近所のスーパーも、店内は人だらけ、でも商品は何もかもすっからかんになりました。

トイレットペーパーはもちろん、お肉も野菜も卵も全部なくなりました。

犬の餌の棚までもが空っぽになっていたのには、さすがに苦笑しました。

 

それから2~3日、ビクトルと私は毎日、午前と午後の2回、近所のあらゆるスーパーへ出掛け、食料調達に勤しみました。

当時は、パニック買い、買い占めは良くないと思っていながらも、行く先々のスーパーで、こうして人々が大量に食料品をカートに詰め込んでいるのを目の当たりにすると、焦りました。

近々外出規制も始まるだろうと噂されている中で、もし本当に外出規制が始まったら、具体的にどのぐらい私たちは外出を制限されてしまうのかもまだわからない状態だったので、ビクトルと話し、とりあえず、家族4人分の1日3食の食糧×1週間分と、ミネラルウォーター、そして猫の助の食糧と猫砂を調達することにしました。

 

とは言っても、なんせスーパーには商品がありませんでした。

毎日スーパーを何軒もはしごして、結局、今まで買ったこともなかったような、骨付きの料理しにくい肉や、今まで見向きもしなかった、瓶詰、缶詰、冷凍の野菜などしか買えませんでした。

キッチンの食糧棚や、冷蔵庫、冷凍庫が食べ物で埋め尽くされていく様を見て、子供たちは「アポカリプスだね。」と、まるでゲームさながらとでも言わんばかりに笑いました。

 

それと同時に、当時のWHOの「マスクは大した効果がない」発言を鵜呑みにして、「だからマスクはいらない!」と言っていたビクトルが、「これからは、外に出る時は、必ずマスク着用だ!」と言い始めました。

初めの内は、「今マスクを付けてスーパーに入ったら、感染者と疑われて、お店の人に追い出されやしないか…」とか、「キャー!この人感染者よー!って、お客に騒がれたりしないだろうか…」とか、ドキドキものでしたが、道行く人や、スーパーの中で、少しずつマスクを付けたりスカーフで口を覆っている欧米人を見かけるようになり、終盤の頃にはもう、堂々とマスクを付けて道を歩き、スーパーで買い物できるようになっていきました。

 

元々、私たちの住む街では、3月14日からすべての学校がお祭りのために1週間ほど休みになる予定で、我が家の子供たちは、3月13日の金曜の授業が終わると、母親シュエの家へ行くことになっていたので、今後どうなるかわからないけれど、とりあえずは「良いバケーションを!」とお互い言い合って、子供たちを送り出しました。

 

そして、子供たちを送り出したその夜に、緊急事態宣言と、外出規制が週明けから開始だと発表されました。

 

本来であれば、子供たちも学校が休みになって、お祭りも本格的に盛り上がってきて、人々はバルやレストランに繰り出し、子供たちは爆竹を投げ合い、夜遅くまで大騒ぎになるはずの金曜の夜。

それなのに、この日の夜は、爆竹の音も子供たちの声もありませんでした。

近所のバルやレストランは軒並み真っ暗で誰もおらず、往来する車もありませんでした。

耳が痛くなるほど、静かな静かな夜でした。

 

外出規制中の現在、スーパーなどの食糧品を扱うお店や、ガソリンスタンドなど、人々が生活する上で必要最低限の商品やサービスを扱っているお店は、平日のみ営業しています。

銀行は、予約を入れれば個別対応のデスクを開けてくれます。

タバコ屋も開いています。

タバコ屋は、バスや路面電車プリペイドスマホのチャージなども取り扱っているからでしょう。

郵便局も営業していますが、営業時間は大幅に短縮しているようですし、そういえばここ最近は、郵便配達の職員をめっきり見かけなくなりました。

日本からの郵便物、スペインから日本への郵便物も、ほぼストップしていると言っても過言ではない状況のようです。

「日本のじいじとばあば宛てに、子供たちが絵ハガキを書いたのに、それすら郵便局で拒否されてしまった」と、在住者の集まる掲示板で誰かが呟いていました。

 

食料の買い出しや、犬の散歩、やむを得ない外出は、今のところ自由ですが、ただし、例えば誰かと連れ立ってスーパーへ行くと、1人しか入店させてもらえません。

他にも、子供を外に連れ出すことは禁止されています。

車を運転する時は、介護や介助が必要な老人や赤ちゃんを乗せる以外は、同乗者は1人のみが許されています。

何の理由もなく外をうろついていると、どこからともなくパトカーや警察官が現れて、「何をしているの?早く家に戻りなさい。」と叱られます。

 

私は、2年前のマイコプラズマ肺炎羅漢以降、少しでも風邪を引くと、気管支炎に始まって肺炎ギリギリまで悪化してしまうようになったので、ビクトルは私に「外には絶対に出るな!」と言います。

だから、我が家では、スーパーへ行くのも、ゴミ出しも、下の階へ郵便受けをチェックに行くのも、すべてビクトルがやっています。

本当に、いざという時に役に立たない嫁で、情けない限りです。

 

毎晩20時になると、すべての…というわけではありませんが、多くの人々がベランダや窓から顔を出し、数分間、一斉に外に向けて拍手や歓声を送ります。

これは、今最も多忙を極め、激務をこなしている医療従事者への労いと感謝を込めた拍手です。

どさくさに紛れて、時々花火も打ち上ります。

普段は外に出られないから、せめてこの数分間だけでも外の空気を吸いたい、ストレスを発散したいという思いもあるのだと思います。

 

この国の人は、皆、外に出かけるのが大好きです。

お天気が良ければ、老人も子供も、みんな公園に出かけるし、バルやカフェでお喋りをします。

私たち夫婦も、ほぼ毎日、近所のバルやカフェにコーヒーを飲みに行っていました。

四六時中一緒にいて、子供たちが学校へ行っている間なんかは、家で2人きりで過ごしているのに、それでもやっぱりバルやカフェに行くのはなんだか特別で、カフェコンレチェをすすりながら、あーでもないこーでもないと2人でお喋りするのが、私たちの日々の息抜き…というか、ささやかな楽しみでした。

それも今は、できません。

もうずいぶん昔の出来事でもあるかのようで、そんな日々を懐かしく、恋しく思います。

 

先日、ビクトルが、誰も通らなくなってしまった家の前の大通りを眺めながら、「つい半年前、僕たちは日本に行って、梅子のお父さんやお母さんと過ごして、いろんな所へも出かけて、本当に楽しかったよなぁ。でも今は、日本に行くこともできない。すぐ目の前のバルに行くことすらできない。」と、呟いていました。

その後ろ姿の、なんと小さいことか。

 

私たちの世代は、戦争を知らず、不自由を知らずに育ちました。

だから、今のこの不自由な生活は、ポジティブに考えれば、実はものすごく貴重な体験をしているなぁと思うことがあります。

そうでも考えないとやっていけない、心が折れる!とも思っていますが。

 

でも、その一方で、もうこの国では10万人もの人がコロナウイルスに感染し、今死ぬ必要のなかった9千人もの命が失われています。

“明日は我が身”という言葉が、冗談抜きで紙一重の状況です。

 

今のところ、私は生きている。

ビクトルも、子供たちも元気に生きている。

 

でも、やはり万が一、万が一、特に私の身に何かあった時は、ビクトルが困らないように、大使館や日本の家族の連絡先を書いた、“終活ノート”のようなものを作ろうかと、今、真剣に考えています。

 

日本も、今、大変な時期だと思います。

どうか、どうかお願いだから、スペインのようにはならないでほしい。

ただただそれだけを願っています。

 

 

■本記事のタイトルは、映画「がんばっていきまっしょい」(1998年公開、日本)をモジることなくそのまんま使わせていただきました。

記事の内容と映画は、一切関係ありません。