梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

世界でいちばん幸せな場所 3

前回までのお話 1は、コチラ

前回までのお話 2は、コチラ

 

 

ママ(=義母)が認知症を患い始めた頃から、「ママは今、大きなシャボン玉の中で生きているんだ。」と、ビクトルは度々そう話していた。

シャボン玉の中では、今は亡きパパ(=義父)とお義姉さんが生きていて、時には、遠い昔の思い出の中のママの両親も訪ねてきてくれて、ママにとって人生の黄金期だった頃を、いつでも好きな時に思い出し、痛いことも苦しいこともなく、煩わしさもなく、穏やかでいつまでも温かい。

この頃のママのシャボン玉は、まさに家の中そのものの大きさだった。

 

だけど、お手伝いのローサを雇ったこと、そして、訪問医を呼び、救急車に乗せ、病院に連れて行ったことで、ビクトルと私は、ママの大きなシャボン玉を盛大に破裂させてしまった。

ママは、完全に足場を失った。

あの日、ママを病院に連れて行った火曜日から、日を追う毎に、ママは自力で立つことも歩くことも、ベッドから起き上がることさえもできなくなってしまった。

今思えば、ママは、また新たなシャボン玉を必死に作ろうとしていたんだと思う。

その最初の大きさが、ベッドの上だったんだと思う。

 

 

火曜、救急にママを連れて行ったあの日の夜。

 

ビクトルが1人、診察室から出てきて、外でタバコを吸っていた私とエステバンを呼びに来た。

「梅子、ちょっと来て。」と言うので、私がビクトルに駆け寄ると、ビクトルは静かに言った。

「ママの胸の発疹、帯状疱疹じゃなかったよ。癌だって。乳癌。」

一瞬、ビクトルが何を話しているのかわからなかった。

「終末の病気だから、この癌は治らないだろうって。」

 

そんな…、終末って何よ…、治らないって…。

膝に力が入らなくなった。

思わずビクトルの腕によろけると、ビクトルの体温を感じた。

温かい…と思った瞬間から、目から大粒の涙がボロボロ出てきて、耐えられず、私は子供のように声を上げて泣いた。

“終末”ということは、この癌が終わった時、ママの人生も終わってしまうということだ。

今まで、この世界に、ママの家の扉を開ければ、いつも当たり前のようにリビングのお決まりの椅子に座っていたママが、この病気と共にいなくなってしまうなんて、想像できない。

涙が止め処なくこぼれた。

 

「梅子、泣くのをやめて。人が見てる。」と、ビクトルが言った。

私たちは、救急センターの出入り口からすぐの、待合ホール、処置室へつながるホールで話していたので、そこはひっきりなしに人が通る場所だった。

私はカバンからハンカチを取り出して、急いで涙を拭いた。

「今、ママが点滴を受けるみたいだから、しばらく一緒にいてやってくれない?僕はエステバンにも話したいし、何より僕も一息ついて落ち着きたい。」

ビクトルはそう言って、私に点滴ルームを案内すると、エステバンと共に外に出て行った。

 

扉の前で、私はもう一度ハンカチでしっかり涙を拭いた。

そして深呼吸を1つしてから扉を開けた。

扉を開けると、廊下を挟んで右側にはナースの詰め所と処置室がいくつかあり、左側に点滴ルームがあった。

歯医者にあるような、足の先まで乗せて横になれる椅子が数台あって、ママの他にも2~3人ほどの患者が、その椅子に横になって点滴を受けていた。

ママは点滴ルームに入ってすぐの椅子に寝そべっていて、白い毛布を掛けられ、首から足先まですっぽりくるまっていた。

枕元のスタンドには、点滴のボトルが2袋用意されていたが、ママはまだ点滴を受けていなかった。

「Hola、ママ。」

私はそう言いながら、笑顔でママの傍に寄り、付き添い者用の椅子に腰かけて、ママの手を握った。

ママは、「Hola、イハ。(:イハとは娘の意。)来てくれたのね。」と、笑顔で私を迎えてくれた。

「ママ、お腹空いてない?何か食べたい物ある?お水、少し飲もうか?」と私が聞くと、ママは何もいらないと言った。

時計はもう、夜の12時を回っていた。

救急車での大パニックを最後に、病院内に入ってからのママは、まるで別人のようにすっかり大人しくなっていた。

見るもの聞くものがすべて珍しいみたいに、ママはずっとキョロキョロしていて、ビクトルの姿が見えないと、すぐに「ビクトルは?私の息子はどこ?」と、何度も私に聞いた。

 

やがてナースがやって来て、ママへの点滴が始まった。

ママは、ビクトルの所在を聞く以外にも、「今何時?」と、時間も何度も聞いた。

その度に、ママは、受付の時に腕に巻かれた患者コードのリストバンドを、腕時計と勘違いして、自身でも時間を確認しようとするのだけど、リストバンドが腕時計でないとわかる度に、「私の腕時計はどこ?」と言い、私はいつも「ママの腕時計は、寝室のドレッサーの、いつもの所に置いてあるよ。今日は持ってくるのを忘れちゃったね。今の時間は、ほら、〇時です。」と言いながら、私の腕時計で時間を見せた。

時間を見せる度に、ママは毎回「あら!もうこんな時間なの?」と驚いた。

 

点滴ルームには、付添人は1人しか入ることができないと言われ、私とビクトルは時々交代しながらママに付き添った。

あまり私ばかりが付き添っていると、ママはビクトルがいないことを不安がってしまうし、ビクトルはビクトルで、彼もまた大の病院嫌いなので(パパのこと含め、過去にいろんなことがあって、トラウマになったそうだ。)、病院独特の匂いや雰囲気に耐え切れず、長時間ママに付き添っていられなかったのだ。

 

2本目の点滴が終わる頃にはもう、夜も1時を回っていた。

驚くことに、今夜は入院しなくていいと言われた。

しかしママは、疲れと眠気で、「家に帰らなくてもいい。今夜はここで眠りたい。」と言い出し、点滴ルームの椅子の上で寝そうになっていた。

「あなたは女の子なんだから、こんな夜中に1人で帰るのは危ないわ。ビクトルがいるなら、彼にちゃんと家まで送ってもらいなさい。タクシー代は私が出すから。」と、私の帰宅の心配をし始めた。

(ママは、私がビクトルの妻であることを忘れているので、いつも私のことはビクトルのガールフレンドだと思っている。)

 

点滴は受けたが、胸のただれはまたしても何も処置されず、感染症抗生物質の処方箋だけ渡されて、診察は終了した。

再び救急車で帰宅することになったのだが、受付の手違いで救急車が手配されておらず、救急車が来るまで結局1時間以上も待たされた。

救急車の中では、またしてもママがパニックになって絶叫し続けた。

帰宅し、ママをベッドに寝かせたのが午前3時半。

自宅に帰り、私とビクトルがベッドに入ったのは、朝方の5時だった。

そして翌朝9時には、エクトルを学校に送り、薬局へ行って、昨夜処方された抗生物質を買った。

間もなく昨夜の総合病院から電話があり、次回のママの診察は2日後の金曜日だと言われた。

 

昨夜は、訪問医が送迎用の救急車を手配してくれたけれど、金曜日の診察へ行くには、私たちが救急車を手配しなければならなかった。

まずはママのかかりつけ医になっている病院(いわゆる町医者。ママは社会保険加入者なのだが、社会保険加入者の場合、たとえ1度も病院に行ったことがなくても、居住所からいちばん近い病院に必ず担当医がいる。)で、ママのかかりつけ医にアポイントを取り、事情を説明しなければならない。

そして、かかりつけ医が救急車手配を承認すると、その病院の受付が、救急車手配の予約をしてくれる。

もしくは、すでに個人で救急車手配先の電話番号を知っていれば、かかりつけ医の承認書を得た上で、個人で予約も可能だ。

 

ビクトルは、早速ママのかかりつけ医のアポイントを取るため、病院に電話をかけたが、何度かけても、誰も出なかった。

予約を入れたくて電話をかけてもなかなか電話に出てくれない、社会保険提携病院の、代表的なあるあるの1つだ。

我が家の子供たちが風邪を引いた時や、予防接種を受けなければならない時、いつもこの時点でイライラが頂点に達し、挫折しそうになる。

(それでも頑張って電話しまくり、予約するけれども。)

ビクトルは、「埒が明かない!」とイラついて、「病院に直接言って来る!」と言って、病院のある方へ歩き出した。

私は、ビクトルと別れ、ママの家に向かった。

処方された抗生物質を早速飲ませるためだ。

 

救急から処方された薬は、抗生物質とあと何か、私にはよくわからない薬の、計2種類だったが、薬局に買いに行った時、「胃薬は処方されなかったの?この抗生物質は強いから、普通は胃薬も一緒に処方されるものなのよ?」と、薬剤師に驚かれた。

そして結局、胃薬も買った。

ママに飲ませる薬は、合計で3種類になった。

朝昼晩3回飲ませる抗生物質は、コップの水に溶いて飲ませる物だった。

しかし、これが厄介だった。

その頃ママは、まだオムツを拒んでいた頃だったので、オシッコが近くなってしまうと言って、水を飲むのを嫌がったのだ。

今まで病気知らず、薬いらずで何十年も暮らしていた習慣も、10日間毎日3回服用させるのに、厄介な障害となった。

 

ベテランお手伝いさんのローサは、毎晩の薬とオムツを履かせるのは、ちっとも苦労していないと言っていた。

だけど、朝、ママに薬と朝食を与えに、私が家を訪ねると、ベッドの上か、時にはトイレの床に、毎朝オムツが脱ぎ捨てられていて、ベッドはいつもお漏らしの跡があった。

リビングにいるママに「何やってるの?こっちに来なさい!」と怒鳴られながら、毎朝ベッドカバーを換え、我が家に持って帰り、毎日洗濯機を回した。

水に溶いた抗生物質と胃薬(胃薬はカプセルだったので、薬剤師のアドバイスでカプセルを開け、中の粉末を抗生物質と共に水に溶いた)を飲ませるのもまた、私にとっては毎回戦いだった。

初めの一口は造作ないが、なにしろ最後まで飲み干してくれない。

「あとたった一口じゃない。ママ、お願いだから飲んじゃって。」と泣き落としてみたり、胸が痒い、痛いとこぼすのを、それ今だ!とばかりに、「この薬飲まないからよ~!これは痒み止めで痛み止めなの。だから飲んで。」と語気を強めてみたり、四苦八苦だった。

「飲め!飲め!」と、あんまり私がしつこいもんで、「私の故郷は頑固者が多くて、私もだいぶ頑固だと思ってたけど、アナタも相当な頑固者だわね!強情っぱり!」と、面と向かって渾身の力で怒鳴られるのもしょっちゅうになった。

その度に私は、「あら?そう?日本の私の故郷もね、特に女の人が頑固で有名な所なの。私の祖母も母も、みんな頑固だから、私もきっと似たんだわ。」と、おどけてみせた。

翌日からは、大きなコップはやめて、我が家の子供たちが昔使っていた、ポケモンのプラスチックの小さいマグカップで、しかも水を半量にして飲ませることにしたのだが、それでもママは嫌がった。

「なんで毎回お水を飲まなくちゃならないのよ!こんなもの!残りはここに捨ててやるわ!」と言って、薬の入った水を床に撒き散らす振りをされることもあった。

 

(薬入りの)お水をガブガブ飲ませるからだろうか(…と言っても、子供用のマグカップに半量なのだけれども)、それとも薬が強すぎるのだろうか、同時にママの食欲がみるみる落ちていった。

胃に薬しか入っていないのが心配で、何か食べてもらいたいのだけど、朝も昼も、ヨーグルトとバナナぐらいしか受けつけない。

スペインの一般的な朝食は、まずはコーヒーとか、ヨーグルトとか、フルーツとかビスケットとか、何かちょっとした物をつまみ、その後でアルムエルソという午前中のおやつの時間に、サンドイッチなど少しかさのある物を食べる。

でもこの時のママは、アルムエルソすらも拒み、私もそう何度もママの家に通うわけにもいかなかったので、薬を飲ませる朝食の時間に、どうしても何かを食べてもらいたかった。

 

ある日の朝食で、小さなお茶碗にチョコクリスピーと牛乳を用意してみた。

水を飲むのを嫌がるから、その中に抗生物質と胃薬も混ぜ込んだ。

ママはチョコレートの類が好きなので、その日は「美味しいわね!」と言って、めずらしく完食してくれた。

大成功!明日もこれでいこうと思った。

しかし、後で私はビクトルにこっぴどく叱られた。

抗生物質は牛乳と一緒に飲むと、効力が失われるのだそうだ。

翌朝、薬を溶いたお水と、チョコクリスピーを用意すると、ママはお水だけを飲み、チョコクリスピーには昼になっても一切手をつけなかった。

 

ママに薬を飲ませ始めてから、私は朝と昼の2回、ほぼ決まった時間帯に毎日ママの家に通った。

今までは、ママの家を訪問するのは、ビクトルや私の都合の良い時間に、行っても1日に1度だけだったのだが、毎日2回、しかもママの薬の時間に合わせて…となると、我が家のこと、特に子供たちのことがおろそかになり始めた。

ママの家に行って、ママが素直に薬を飲んでくれ、私が掃除をしたり食事の用意をすることを受け入れてくれ、食事もきちんと摂ってくれるのなら、まだいい。

でも、ママはそうじゃなかった。

「私どうしちゃったのかしらねぇ。最近、胸の所が痛いし痒いのよ。何も食べたくないし、何もしたくないのよ。」と言いながら、毎回薬を拒み、食事を拒み、部屋を掃除したりベッドカバーを換えるのを怒鳴り散らした。

たった半分の、子供用マグカップの水を1度飲ませることだけで、こうも神経がすり減ることに、自分でも愕然とした。

どうやったら、薬を飲んでもらえるんだろう、ご飯を食べてもらえるんだろう、どうすればいいんだろう。

ローサは問題ないと言っているのに、どうして私はできないんだろう。

毎日毎日反省しては、手を変え品を変え挑戦したけれど、ちっとも上手くできない自分に焦った。

 

2日後の金曜日、私とビクトルは再びパニックで絶叫するママを救急車に乗せて、総合病院へ行った。

今回は、救急ではなく腫瘍科だった。

ママを診てくれた医師は、今度は真っ白な髭を蓄えた、ハイジのおじいさんのような人だった。

再び、私がママのワンピースをめくり上げて、患部を見せた。

医師は、別の若い女医を呼び、またしても携帯で患部の写真を撮った。

そして、患部を触りもしなければ、レントゲンもエコーも撮っていないのに、「間違いなく乳癌です。」と言った。

状態から見て、ママが癌を発症したのは、おそらく1年半前ぐらいからだろうとのことだった。

もうすでに、左胸が壊死しているし、ママの年齢を考えても、手術は選択肢にはないと言われた。

「バターに針と糸を通しても縫えないのと同じです。」と、医師は言った。

 

ママに残された方法は、2つだった。

1つは、患部から組織を取って、適合するホルモン剤を探し、ホルモン療法をすること。

しかし、これには大きなリスクがいくつもあった。

まず、これだけ患部が酷い状態だと、組織を取った時に血が止まらなくなる可能性が高いと言われた。

組織を取るには、メスで深く切るので、これだけ患部が壊死していると、ママの体自体が血を止められない可能性があった。

また、組織を取れたとしても、適合するホルモン剤が見つかるかどうかもわからないし、たとえ見つかったとしても、それは単に癌の進行を遅らせるだけで、完治させることはできないとのことだった。

さらに、ホルモン療法をするとなると、今の内はまだ入院させてもらえず、ほぼ毎日通院することになるとも言われた。

毎日救急車を手配して、毎日大絶叫の中通うのかと思うと、正直ゾッとした。

 

もう1つの方法は、ハッキリ言ってしまうと、“何もしない”ことだった。

自宅にいていい。

病院には来なくていい。

その代わりに、ドミシリアリアと言って、メディカルチームが定期的に訪問し、容態をチェックする。

「入院先が自宅、ということです。」と、医師が言った。

 

「組織検査をしますか?それとも、ドミシリアリアを呼びますか?」

次から次へと言われることを処理するだけで、もうすでに脳みそがショート寸前だというのに、最後の最後で医師たちはものすごい選択を迫ってきた。

「何度も言うようで申し訳ないけれど、お母様の癌は、終末の病気です。もう私たちにも治すことができません。あなた方がどちらを選んだとしても、それが正しい選択です。だからどうか、どちらかを選ばねばならないことを、罪深いとか責任を感じるとか、思わないでください。」

若い女医が言った。

“もう治すことができない”と言われた時、涙がぶわっとこぼれた。

 

それでもまだ、ビクトルも私もその場では決断することができなかった。

「少し考えさせてください。」と言って、私たちは一旦診察室を出た。

ママの座る車椅子を押しながら、人気のない別の待合室へ行き、話し合った。

ママはこの日、朝の薬入りのお水以外、まだ何も口にしていなかったので、持参していたバナナの皮を剥き、ママに食べさせた。

ママは最初、「何も食べたくない!」と拒んだが、ビクトルが「ママいい加減にしてくれ!今日はまだ何も食べてないんだろ?お願いだから食べてくれよ!」と言うと、ママはぶすくれた表情で、大人しくバナナを食べ始めた。

 

決断するには短すぎる時間だった。

でも、ビクトルと私は決断した。

決断しなければならなかった。

再び診察室のある方へ戻り、今度はビクトルだけが診察室に入った。

 

「ドミシリアリアの手配をお願いします。」と、ビクトルは白鬚の医師に伝えた。

医師は、「正しい判断だと思います。私の母が同じ状態だったら、私もあなた方と同じ決断をしたでしょう。」と言った。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「地球でいちばん幸せな場所」(2008年公開、アメリカ・ベトナム)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。