梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

世界でいちばん幸せな場所 2

前回までのお話は、コチラ

 

 

以前、本ブログ内のどこかの記事にも少し書いた記憶があるのだが、スペインの老人介護は、主に3通りある…と思う。

(そこまで詳しくないので、あんまり自信満々には言えないけれど…。)

 

1つは、家族が自宅で介護する方法。

娘や息子が複数いる(兄弟姉妹がいる)場合は、それらの娘家族や息子家族が単独で、もしくは兄弟姉妹同士で協力し合って、一定の期間ごとにそれぞれの自宅に引き取り、世話をする。

ビクトルのママ(=義母)のように、別居している場合は、娘夫婦・息子夫婦が足しげく通ったり、交代で泊まり込みするなどして、世話をする。

 

2つ目は、人を雇う方法。

一応この国にも、介護のヘルパーさん(資格アリ)は存在するが、ビクトルの話を聞く限りでは、訪問介護してもらうとなると、費用が割高なわりにはケアが雑だと聞いた。

(これはあくまでも、私たち夫婦の見解なので、スペインの一般常識としては捉えないでほしい。ものすごく優秀なヘルパーさんは、この国にもきっといる。)

資格のあるヘルパーさんの代わりに、資格はないが経験が豊富な、いわゆる“一般人”を雇う方法もある。

これらの人は、主に、30代から50代の、南米からの移民の女性が担っていることが多い。

大概の人は、こういった移民の人を雇っているのではないかと思う。

 

3つ目は、老人ホームに入居させる方法。

“老人ホーム”と一言で言っても、種類は様々あるようだ。

民間会社が運営するホームはもちろん、修道院内にあって、シスターたちが運営とケアをするホームもある。

ホーム内に医療施設が完備され、医師と看護師が常駐していて、あらゆる病気にも対応してくれるホームもある。

 

ママがまだ認知症でもなくて、元気だった頃、ママはビクトルに「老後は、この家で余生を過ごしたい。万が一私に何かあったとしても、老人ホームにだけは入れないでほしい。」とお願いしていた。

ビクトルは、その希望を尊重して、老人ホームに入れることだけは考えずに、今までやってきた。

だけど、ママを1人で住まわせ、私やビクトルが通って介護をするのは、もう限界が来ていた。

 

「介護」なんて、いっちょ前なことを言ってはいるけれど、私たちが今までやってきたことは、果たして「介護」と言える代物なのか、私は時々恥ずかしくなる。

 

例えば、認知症が進んでからのこの1~2年、ママは1度もお風呂に入っていない。

本人はお風呂に入っているつもりなので、いくら私やビクトルが「手伝うから、髪を洗おう、体を洗おう。」と言っても、「何バカなこと言ってるの?私が赤ちゃんにでも見えるの?」と笑い飛ばしては、「親をバカにするのもいい加減にしなさい!今日は腰の調子が悪いから、お風呂に入らないで寝るけど、いつもはちゃんと入ってますからご心配なく!」と怒鳴られて、今までお風呂に入れてあげることができなかった。

だから、ママが家の中で転倒して起き上がれないでいる時が、服を着替えるのと同時に、体を洗う…と言っても、できることはせいぜい、介護用のウェットペーパーで体を拭くだけなのだが、それでも、ママは当然「何してるの!寒いんだから早く服を着させて!」と怒鳴り散らし、そして、私たちにとっては、怒られながらもママの体をきれいにする唯一のチャンスだった。

足がおぼつかないママでも、簡単にシャワーだけでも浴びられるようにと、浴槽を取っ払って床をフラットにし、シャワーだけを取り付け、滑り止めや手すりも付ける内装工事を提案したことも、当然あった。

だけど、「私の家だ!勝手なことをするな!」と、あっという間に却下されたのは、言うまでもない。

 

また、ママは食べきれなかったビスケットやパンを、箱や袋に戻さずに、丸裸のまま家中のいたる引き出しにしまってしまう。

本人は、その時は本来あるべき所(キッチンの戸棚)にきちんとしまっているつもりなのだけど、もちろんその後忘れてしまうので、私たちが訪問すると、いつもまるで宝探しゲームのように、あらゆる場所から、しけりきったビスケットや、カッチコチになったパンを見つけなければならない。

そんなわけだから、今では引き出しの中には、小さなアリが入り込んでしまっていて、家中のあらゆる場所には、ママに内緒でアリ退治を仕込んでいる。

毎月ビクトルが引き落として、ママに手渡していた年金も、キッチンの定められた場所にあるはずの紙ナプキンも、いつも思いもよらない場所から見つかる。

 

ママの寝室からトイレにかけて、日中を過ごすリビングからトイレにかけての床は、ほとんど毎日粗相で汚れている。

オムツを付けるべきなのだが、「オムツ」と言っただけで、「私はまだそんなに老いぼれてはいない!」と、鼻で笑われるか、雷を落とされる。

せめて床をキレイにしようとモップを取り出せば、「私の家で、何勝手なことをしてるの!私がゴミ屋敷にでも住んでるって言いたいの?!」と、これまた怒鳴られる。

 

本当はもう何もできなくなってしまったのに、過去の主婦&母親時代の栄光と、夫に先立たれてしまってから、長年一人暮らしをしていた自負は、認知症になった今でもママの心に生き続けているから、とにかく、ビクトルや私がママのために何かをしようとしても、「自分でできる!」とすべて拒否されてしまうのだ。

 

ところで、もうずいぶん昔の話になるが、私の祖母の時は、両親がよく市町村の介護サービスを利用していた。

まだ自宅で介護できるぐらい軽度な時は、それでももう自宅でお風呂に入れることができなかったので、祖母は定期的に介護サービスのバスに乗って、お風呂に入りに行っていた。

祖母は、認知症が進み、持病の糖尿病も悪化して、最終的には施設で暮らさねばならなくなったのだけど、その施設も、たしか市町村と地元の病院が提携している所だったと思う。

こんなふうに、日本では少なからず市町村の自治体が主体で、高齢者介護のサービスが手厚いイメージがあるけれど、ここスペインでは、今の所、こういう話は聞いたことがなく、市町村が高齢者向けの介護サービスを展開しているのかどうか、少なくとも、ビクトルと私は知らない。

とりあえず今わかっているのは、車椅子やオムツは、社会保険かプライベートの保険に入っていると、医師からいわゆる処方箋のような物を出してもらえれば、個人的に買うよりもかなり安価で手に入ることぐらいだ。

 

話を戻して、そんなわけでママは、お風呂に入るのもイヤだと言う。

服を着替えるのもイヤだと言う。

オムツを付けるのもイヤだと言う。

病院に行くのもイヤだと言う。

訪問医を呼ぶのもイヤだと言う。

お手伝いさんを雇うのもイヤだと言う。

ママに良かれと思っていること、助けてあげたいと思っていることが、ママにとっては、すべてが「NO!」で、一蹴される。

でもその一方で、「誰にも迷惑をかけたくない。お前たちに負担をかけたくない。」と言う。

「なら僕たちはどうしたらいいんだよっ!」と、ビクトルはいつも嘆く。

 

もう認知症なんだから、ママの言うことをいちいち真に受けることはないと、私もビクトルも、いつもお互いそう話し合ってはいるけれど、でも私たちは介護のプロではない。

だから結局、ママに皮肉や嫌な言葉を言われて拒否される度に、ショックを受け、傷つき、憤慨し、最終的にはママのご機嫌や希望を尊重するか、どうしても強行しなければならない時は、ビクトルが喚くママを叱り飛ばして、その時その時にできる最低限のことしかやってこなかった。

実家の私の母には、「認知症の人には絶対怒っちゃダメ。ビクトルにもよく言っておきなさい。」と、よく言われるのだけれど、私やビクトルの“手伝いたい、助けたい”という思いを、むげに断り怒鳴り散らすママを目の前にすると、ビクトルはやはり言い返さないわけにはいかないようだった。

 

今のママには、私たちのこんな薄っぺらい介護では、全然十分ではない。

今までは、ママ自身が満足・幸せだと思えるのならそれでいいと思っていたけれど、これからは、いくらママが「NO!」と怒っても喚いても、医療の力と、私たち家族以外の他の人の力を借りて、ママの健康と生活環境をもっときちんと整えていかなければならない。

ママの今回の発疹の発覚は、ビクトルと私の考え方が、変わる瞬間でもあった。

 

 

週が明けて、月曜日。

お手伝いさんのローサが来た。

 

ローサは、南米ボリビアの出身。

ママの家へは歩いて出勤できる距離に、旦那さんと2人暮らしをしている。

母国には、娘さんが祖父母と一緒に住んでいるらしいのだが、病気のために全身麻痺の状態だそうで、その医療費を稼ぐために、スペインに来たのだと言う。

ローサは、介護ヘルパーの資格は持っていない。

だが、いつも修道院からの紹介で、主に老人介護の仕事をしているので、ビクトルが修道院のシスターからローサを紹介された時も、「かなりベテランで、本当によく働く方ですよ。」と聞いていた。

 

シスターの言われた通り、ローサの働きぶりと、仕事に対する姿勢は、“お見事!”の一言に尽きる。

まず、服装はいつも真っ白のポロシャツに紺色のズボン、そして真っ白の靴。

髪はいつもキュッと後ろに束ねていて、清潔感に溢れる。

また、ローサの声や話し方は、普段きつく聞こえがちなスペイン語を柔らかく、とても丁寧に話す。

完全に年下の私にさえ、「ドニャ・梅子」と敬称で呼ぶので、いつも逆に私の方がかしこまってしまうほどだ。

あの、大のよそ者嫌いのママでさえ、あっという間にローサを受け入れた。

 

ローサは、他に引き受けている仕事の関係で、ママの家には月曜から土曜までの週6日を、2時間程しかいないのだが、でもそのたった2時間の中で、一体どうやったらこんなふうに?!と思うほど、毎日家のどこかしらを完璧に掃除して、ママに食事を作り、与え、服を着替えさせ、ベッドに寝かせる。

時には、ママの体を拭き、あれほどママが嫌がっていたオムツも、いとも簡単に履かせた。

日に日にママと家が見違えるほどきれいになった。

さらに、ローサはビクトルや私から依頼されたことのみでなく、自らもいろいろと挑戦してくれるし、豊富な介護経験から、役立つ情報をたくさんアドバイスしてくれる。

 

ローサが来てから間もなくの頃、私は彼女と一緒にママの髪を洗い、散髪をした。

ママが嫌がったり喚く度に手が止まり、結局、ハッキリ言えば、私はローサの足手まといだった。

私がもたもたやっている間に、ローサはなんと2度もママにシャンプーをしていたし、何と言っても、ママがイライラし始めた時の応対が素晴らしく、傍で聞きながらだいぶ勉強になった。

髪の切り方も的確にアドバイスしてくれて、「これは今世紀最大の大仕事だ…」と思っていたシャンプーと散髪は、ローサのおかげであっという間に終了した。

もはや、ローサはママと、そして私たち夫婦にとって、なくてなはならい存在になった。

 

 

最強の助っ人、ローサを携え、ママの家に訪問医を呼ぶ火曜日がやって来た。

 

夕方、子供たちが学校から帰って来る時間帯を見計らって、私は子供たちの夕飯用のおにぎりと卵焼きを用意した。

そして間もなく、ビクトルの甥っ子エステバンが、恋人のラウラを連れて我が家に来た。

ラウラは、エステバンから話を聞いて、この日、子供たちのシッターを買って出てくれたのだった。

子供たちをラウラに託し、ビクトルと私、そしてエステバンは、ママの家に向かった。

 

ママの家に着くと、ママはいつものように、リビングで椅子に座って佇んでいた。

皆がそれぞれママに挨拶をし、少しお喋りをしてから、ビクトルとエステバンは「ちょっとタバコを吸って来るよ。」と言って、間もなく書斎に消えた。

書斎の電話から、救急センターに電話をして、訪問医を呼ぶためだ。

その間私は、ママの気を逸らさせるために、ママと一緒にいて、引き続きお喋りをして過ごした。

ママは、久しぶりにエステバン(彼女の孫だ)に会えたことを、とても嬉しがっていた。

 

ビクトルとエステバンが、電話を終えてから、訪問医が来るまでに、私たちは優に1時間以上は待った。

その間にローサも出勤してきた。

ママの家が久しぶりに人で溢れ、ママは上機嫌だった。

 

ママを除くすべての人が、そろそろしびれを切らしかけていた頃、ようやく訪問医がやって来た。

ママは、これから何が始まるのか、まったくわかっていなかったので、「お医者さんだよ。」と、ビクトルや私が言うと、明らかに怪訝な表情になった。

訪問医は、カバンからゴム手袋を出してはめると、「じゃあ、胸の様子を見せて。」と、急かすように言った。

「何?何なの?」と、不安になっているママをなだめながら、ローサと私はママを1度立たせ、ワンピースを下からめくり上げて、胸の様子を見せた。

数日前までは、ケロイド状にひどくただれてはいたものの、確かにあった左の乳房が、もうまったく胸の膨らみを失っていた。

その代わりにあったのは、強烈な腐敗臭だった。

 

訪問医は、少しだけママに近寄って、一目見ると、触るでもなく、「あぁ、こりゃダメだ。感染症が重症化している。すぐ救急車を呼んで、総合病院へ連れて行きなさい。」と言い、さっさとゴム手袋を外してしまった。

薬を塗るとか、ガーゼを貼るとか、そういった処置は一切なかった。

訪問医は、カバンからいくつかの用紙を取り出し、サインをして、「これは救急車のドライバーに渡すように。そして、こっちは病院で受付に渡して。」とビクトルに託し、私とローサには、今すぐ家中の換気をすることと、ママの衣類とベッドカバーは毎日取り換えて洗濯するよう指示をした。

そして、自身の携帯で救急車の手配をして、「それじゃぁ、私はこれで。」と、帰って行った。

ビクトルとエステバンが、帰って行く訪問医を廊下で呼び止め、詳しい状態を聞きだそうとしていたが、「あれはひどい感染症だ。とにかく、緊急に大きな病院で診てもらう必要がある。」としか、情報は得られなかった。

 

それからまた、皆で1時間近く待って、やっと救急車が到着した。

救急車と言っても、ママのように上手く歩けない人や普通の車(タクシーやバス、マイカーなど)の乗り降りができない人のための、自宅から病院までの送迎専門の救急車だ。

なので、乗務スタッフはドライバー1人のみ。

簡易車椅子を持って、ママの家の階まで上がって来てくれて、ママを外へ移動させると、今度は、可動式の担架にママを寝かせ、担架ごと車に乗り込ませた。

ママと救急車に同乗できる身内は1名のみとのことだったので、私が同乗することになり、ビクトルとエステバンは、タクシーで病院へ向かうことにした。

 

ママは、病院に到着するまでの間、ずっとパニック状態だった。

担架に寝かされて、ベルトで2か所固定されているとは言え、担架が胸から頭にかけて少し起き上がっている形状だったので、ママの視線は救急車の後部扉になるため、赤信号やらで車が止まる度、右折や左折をする度に、「扉が開いちゃうー!!落とされちゃうー!!」と、終始、絶叫だった。

「ママ!扉は鍵が閉まってて開かないから大丈夫。ほら見て!ベルトも付いてるし、私がママを押さえてるから。ね、大丈夫でしょ?」と言っても、「扉が開かないって誰が信じられるって言うの?アンタの手だけで掴まれてても、大丈夫なもんか!」と返され、「ママ!久しぶりのお外だね。ほらほら、あれ見て!きれいだねー。」と、横の窓から見える景色を指さして気を紛らわそうとしても、「私からは何も見えないし、何も見たくない!早く降ろして!」と、ますます喚かれてしまった。

何度「大丈夫。心配ないよ。」と言ったかわからないぐらい繰り返しても、「アンタは大丈夫でしょうよ!でも私は大丈夫じゃない!」と、これまた何度言われたかわからないぐらい、繰り返された。

 

総合病院に到着し、ドライバーがママを降ろしてくれる時、私は苦笑いしながら「うるさくてすみませんでした。」とドライバーに言った。

するとドライバーは、「お姑さん、すごい人だね。君もお疲れさん。」と、笑って言った。

きっとこれ以外にも、ママは救急車の中でもっとたくさん嫌な言い回しや汚い言葉を叫んでいたのだと思う。

ただ、私のスペイン語力の無さのおかげで、ママがあと何を言ったのかはよく理解できなかったから、私の心はきっと半分ぐらいのダメージで済んだと思う。

ここが唯一、私のラッキーな所だ。

 

ママは、ドライバーとナースたちによって担架から車椅子に移され、ドライバーに車椅子を押されながら、救急外来の受付に向かった。

私は、その後を追いかけながら、ビクトルに持たされていた携帯で、エステバンの携帯に「今着いた。」と電話をかけた。

ビクトルとエステバンは、私たちよりも先に到着していたようで、隣りの待合ロビーから走って来てくれた。

 

受付を済ませ、待合ロビーで待っていると、間もなくママの順番が来た。

エステバンをロビーに残し、ママと共にビクトルと私が処置室に入る。

処置室でもまた、私がママのワンピースをめくり上げ、医師に見せた。

感じの良さそうな若い医師は、ママの胸を見るなり「おぉ…これは酷い…。」と言い、もう1人別の女医を呼んだ。

女医は、ママの胸を見て「いつ頃から発疹ができたの?」と、ママに聞いたのだが、ママはシレっと「2~3日前からです。」と答え、「2~3日前ぐらいで、ここまで酷くなるはずないでしょう?」とイラついた。

その後女医は、「他の科の同僚たちにも見せたいので、写真を撮ってもいいですか?」と言い、ビクトルが「いいですよ。」と答えるのも待たずに、携帯でパシャパシャと写真を撮り始めた。

女医は、写真を撮っている間も、「これは最悪よ。セニョーラ、ここまで最悪なのは見たことありませんよ。」と、ママに言い続けた。

この処置室では、診察は以上だった。

ママの胸の状態を見て、医師たちは顔をしかめるだけで、洗浄も消毒も、薬も塗ってもらえなかった。

 

一旦待合ロビーに帰され、少し待っていると、再びママの名前が呼ばれた。

ナースに「息子さんだけ一緒に来てください。」と言われ、ビクトルとママだけが別の処置室に通された。

私とエステバンは、待合ロビーにいるのも落ち着かなくて、タバコを吸いに2人で外へ出た。

最初の処置室での出来事をエステバンに話し、「女医の態度が最低だったわ!」と愚痴をこぼした。

家で待っている子供たちや、シッターをしてくれているエステバンの恋人ラウラのことも話した。

最後に「ママ、今日は入院かなぁ。」と話していると、ようやくビクトルが私たちを呼びに来た。

 

私が真っ先にビクトルに駆け寄ると、ビクトルが言った。

「ママ、帯状疱疹じゃなかった。癌だった。乳癌。治らないだろうって。」

 

私は、ビクトルの腕の中に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

 

 

■本記事シリーズのタイトルは、映画「地球でいちばん幸せな場所」(2008年公開、アメリカ・ベトナム)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。