悩みは深い海の如く 1
結婚前、ビクトルと2人でバルセロナへ旅行したことがある。
それまでテレビや雑誌なんかでしか見たことのなかったサグラダファミリアを、初めて目の当たりで見た時の感動は、今でも忘れられない。
しかしこの旅行は、私にとって忘れられない、もう1つ別の思い出がある。
昼食を取るため立ち寄ったレストランで、ビクトルと結婚後のことについて少し話したのだが、ビクトルの望む将来のビジョンを聞いた時、私はショックで泣いたのだ。
「せっかくの旅行なんだから、楽しく行こうよ。」ということで、この話題はすぐにやめたが、その時に撮った写真の私は、つい先ほどまで流していた涙のおかげで、やけに目がキラキラと輝いていてる。
事情を知らない人にこの写真を見せたら、きっと「とってもいい笑顔してるね!」とでも言われるだろう。
昔々の、ほろ苦い思い出…。
だが、ほろ苦かったあの出来事は、今、熟れに熟れ、強烈に苦く、大きな塊となって、私の心のど真ん中に鎮座している。
「私たちの子供を作るべきか、作らないべきか。」―――
あの、結婚前のバルセロナ旅行で、私は「子供が欲しい。」と言った。
ビクトルは「もう子供は欲しくない。」と言った。
しかし、「お互い、今後気持ちが変わるかもしれないから、引き続き話し合っていこう。」と言うことで、結婚後も私たちは時々話し合っていたが、決着がつかずにいた。
昨年の秋頃、私は思い切って、ビクトルにこの話題を再度ぶつけた。
もし、私たちの子供を作るなら、特に私の年齢が、おそらくこの1、2年でタイムリミットだ。
私の体は、子供ができる体質なのかそうでないのかは、わからない。
子供ができない体質なのならば、潔く諦める。
でも、もし何も問題なく子供を産める体なのならば、女性として生を受け、こうして無事結婚もできた今、何も試さずにみすみす時期を逃して老いていくのは悲しい。
私たちの置かれている状況は、いろんな意味で「子供をもう1人…!」なんて悠長に言ってられないけれど、でも今試さなければ、いつかきっと後悔する日が来るような気がすると、私は言った。
この話題になると、いつも難しい顔になり、「考えておく…。」と言うばかりのビクトルだったが、この時ばかりは、私は結構強気に主張した。
そして、ようやく口を開いたビクトルの結論は、「梅子の気持ちはわかった。今まで、“あれをしたい、これをしたい”と言うのは僕ばかりで、いつも君は僕に付いて来てくれた。君が欲しいのなら、子供を作ろう。でも、体外受精とか、そういうのじゃなく、自然に任せて作ろう。君が決心したら、いつでも言ってくれ。」だった。
「自然に任せて…」だなんて、なんだかビクトルに調子よく丸め込まれたな…と、正直思った。
そうして結局、決断は私に委ねられたのだが、委ねられた途端、情けないことに怖気づいてしまった。
本当に子供が欲しいのか、子供を作るべきなのか、ますますわからなくなってしまった。
子供を持ったら持ったで、昨年の流行語大賞でも話題になるほど、子育てする環境やシステムの問題も深刻だ。
一方で、結婚しても敢えて子供を作らない女性もいる。
そういう女性たちに対しての賛否両論が取りざたされているのも、ネットで何度か読んだ。
あの、バルセロナのレストランで、「子供が欲しい」とは言ったものの、でもあの時から、いいや、実を言えば、まだまだ独身時代花盛りの、20代の頃から、私は将来、自分の子供を持つべきか持たないべきか、時々考えていた。
考えたまま20代が光の如く過ぎ去り、30代、そしてもう40代の世界がチラッチラッと目の前を横切りだした今になって、何を今さら!とばかりに、人生最大級に悩んでいる。
考えても考えても、答えを決められない。
だからできることなら、杖をついて歩くおじいちゃんでも学校帰りの子供たちでもいい、道で出会うすべての人に、「私は自分の子供を作るべきでしょうか?」と、聞いて歩きたいぐらいだ。
でも、わかってる。
いくら全世界の人々1人1人に聞いて回ったとしても、結局、決めなければならないのは、私自身だということを。
このブログをお読みくださっている皆様には、すでにご存じのことだが、私は、30代半ばにバツイチ子連れのスペイン人、ビクトルと結婚した。(ちなみに私は初婚。)
妻になった途端に、2児のなんちゃって母ちゃんにもなった。
言い方はまずいかもしれないが、見ようによっては、旦那様と同時に、子供をなんと2人もゲットできたのだから、なんてお得な結婚だ。
自身の腹を痛めることもなく、そこそこ可愛い盛りの子供を2人も授かれたのだし、私の人生、これでいいんじゃない?
そう思うこともある。
子供を育てるのは、下世話な話、お金だってかかるし、日々の生活も、夫婦(大人)2人だけの時よりも容易じゃないことも、我が家の子供たちとの生活を通して、つくづく痛感する。
犬や猫と違って、人間を育てるわけだから、その責任だって、半端じゃない。
熱を出した時、咳が止まらない時、お腹が痛い時、頭が痛い時、傷がきれいに治る方法、嫌いな食べ物を克服させるにはどうしたらいいか、癇癪を起しやすい子供の対処法、子供が嘘をついたらどうするか、思春期・反抗期の対応の仕方、キャラ弁の作り方……。
事あるごとに、インターネットで調べたり、子持ちの友人たち、それこそ私の親にまで聞いたりして、私もいっちょ前に母ちゃん役を一応頑張っている、と思う。
でも、こうやって自分が子育てに前向きに頑張れているのは、純粋に彼らが可愛いし、彼らにとってはある日突然異国から現れた私を受け入れてくれた子供たちへの、純粋な愛情もあるけれど、それ以外に、きっとこの子たちが、愛する人、ビクトルの子供たちだから、という理由も大きい。
そして同時に、この子たちが、シュエの子供たちでもあるからという理由も大きい。
シュエからの偏った愛情で育ったこの子たちを、少しでも真っ当な大人にして、世に送り出したい。
ビクトルが、シュエの影に悩まされながら子育てに奮闘するのを、私も手助けしたい。
ビクトルの重荷や苦しみを、私も一緒に担ぎたい。
一種の、“使命”のような感覚だ。
…なぁ~んて言うと、きれいごとにも聞こえるけど、実際は、大根ハチミツを作っても、気休めの咳止めにしかならなくて、結局ビクトルが病院に連れて行き、処方された咳止めを飲ませ、一発で子供の咳が止まる。
ネットで専門家が語ってるような方法でたしなめてみても、私のつたないスペイン語で、子供たちは白け、ますますなめた口を利き、腹立って喧嘩。
最終的にはビクトルが子供にも私にも雷を落として、無駄にビクトルのエネルギーを消費させている。
キャラ弁作って「どうだー!」と見せれば、次はこのキャラ、その次はあのキャラと言われ、間もなく絵心の限界。
結局自分で自分の首を絞め、「そこまでしなくていいよ。」と、真夜中のキッチンでビクトルに肩を叩かれたことだって数知れない。
なんちゃって母ちゃんとはまさにこのこと!とでも言わんばかりの、失敗の連続だ。
「子供たちの将来のために!」とは表向きで、「生みの母=シュエなんかより、もっといい母ちゃんやってやる!」
腹の奥底では、これが本当の、私のモチベーションになっているのかもしれないとさえ思う。
我が家の場合は、週末は子供たちが母親シュエの家に行くので、ビクトルと私にとっても、週末は子供たちから解放され、いわゆる“育児からの休息日”になる。
昼近くまで寝放題に寝て、コーヒーを飲みに行ったり、大人向けの映画を観に行ったり、友人に会ったり、レストランで食事をしたり…。
毎週末、子供たちのいない所でそんなにも豪華な生活をしているわけではないが、子育てという煩わしさから逃れて、大人だけの楽しみを堪能できていることは確かだ。
私もビクトルも、実はこれが結構大事な息抜きになっているし、子供たちには悪いけれど、この時ばかりは親権半々というのも、案外悪くないシステムだなとさえ思えてしまう。
言い方が悪いけれど、平日の間は、私は母親ごっこを楽しめて、週末はお休み。
大人の時間、夫婦2人だけの、まるで新婚生活のような時間を楽しめている。
だから、ビクトルの言うように、「これ以上自分たちの子供を増やさなくてもいいんじゃない?」と、つい思ってしまう。
今、…と言っても、いつの時代もそう変わらないのかもしれないけれど、世界は混沌としている。
日本もスペインも、アジアもヨーロッパも、それぞれに深刻な問題を抱えている。
どこの国でも、犯罪は絶えない。
いつの時代も、どこかで戦争が起きているか、「今に戦争が起きる!」なーんて危ぶまれている。
スペインに絞って話せば、この国は常にアフリカ大陸からの不法移民、南米や東欧からの移民による犯罪の増加なんかに悩まされている。
もちろん、景気もすこぶる悪い。
いくら子供を大学、大学院にまで行かせても、今、本当に多くの若者たちは、働き口がない。
EUの中で、スペインは他の先進国や経済が豊かな国におんぶにだっこの状態だから、それらの国から見下されている感がある。
(殊、ヨーロッパの国々に関しては、どこも「自国がいちばん!」と思っているから、他国民への偏見はことさら強いのかもしれないが。)
日本の文化や習慣、教育を少なからず受けてきた私から言わせてもらえば、例えば“悪いことをしたら、人に迷惑をかけたら、まず謝る!”というのが常識だが、この国に住む人々は、そうじゃない。
“謝ったら負け”みたいな風潮があって、とにかく言い訳をして、自分に非がないことを主張する。
はっきり言って民度が低いと、感じざるを得ない状況にもちょくちょく直面する。
偉そうに語ってみたが、これは皆が皆そうというわけではなく、あくまで一般的な話だ。
(あんまり偉そうなことを並べて怖くなってきたので、ちょっと言い訳をしておく。)
そんな世の中に、我が子を産み落とし、「さぁ、清く正しく頑張って生き抜いて行け!」と送り出すなんて、できない!
世界は美しいものがたくさんある。
おもしろいことも楽しいこともたくさんある。
だけど、美しくないもの、つらいこと、悲しいこと、腑に落ちないことだって、たくさんある。
我が子に見せたいものはたくさんあるけれど、見せたくないものだって同じぐらいたくさんある。
これが、若い頃から、そして今でも私が子供を作ることに躊躇してしまう理由の1つだ。
子供を作ることに躊躇する理由は、他にもまだある。
それは、今の子供たち、アーロンとエクトルのこと。
2人のお父さんとお母さんは、悲しいことに、離婚してしまった。
平日はお父さん、週末はお母さんに会えるけれど、本当のお父さんとお母さんと、同時に一緒に過ごすことは、もうできない。
今、シュエの新しい家族には、異父兄弟のフアンがいる。
新しい弟ができたのは嬉しいことだけど、お母さんにはお母さんの新しい“家庭”があるわけだ。
お父さんの家では、今は新しい弟も妹もいない。
お母さん代わりの梅子がいるけれど、お父さんの家に帰れば、自分たちはまだ“主役”でいられる。
お父さんも梅子も、僕たちを可愛がり、第一に考えてくれる。
でも、もし、お父さんと梅子の間に、新しい赤ちゃんが生まれたら…?
お父さんにも新しい“家庭”ができてしまったら…?
僕たちは、一体何なのだろう。
僕たちが主役になれる場所って、どこなんだろう。
私とビクトルが子供を作ってしまうと、アーロンとエクトルがそういうふうに考えるようになってしまうのではないか…。
そう危惧したのだ。
ある日、アーロンがキッチンで1人、勉強している時、私は彼にそれとなく聞いてみたことがある。
「もし、もしだよ?もし、パパと私の間に赤ちゃんができたら、アーロンは嬉しい?それとも嬉しくない?」と。
アーロンの答えは、「もちろん、嬉しいよ!」だった。
「僕、小さい子の面倒を見るの好きだから、もしこの家に新しい弟か妹が生まれたら、僕も面倒見るの手伝うよ!」と言った。
また別のある日、私は、アーロンに質問したのと同じ質問を、エクトルにもぶつけてみた。
エクトルの答えも、アーロンと同じだった。
ただし、「ママの家では弟がいるし、どの家も男ばっかりだから、妹にしてね!」という条件付きだったが。笑。
アーロンとエクトルの気持ちを聞いて、私は少しホッとした。
■本記事のタイトルは、映画「愛情は深い海の如く」(2011年制作、アメリカ・イギリス)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。