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梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

罪に立たされる女 中編

前回までのお話はコチラ

 

いつも学校帰りに近くの公園に行きたがる、下の子エクトル。

社交性のない私と夫ビクトルは、付き添いでたむろしている親たちとの交流を嫌い、滅多にエクトルを公園へ連れて行かないのだけど、あんまり連れて行かないのもかわいそうで、時々私が連れて行く。

今週の水曜日、それがその「時々連れて行く」日だった。

そして私は、貯まりに貯まっていた「ヘマ・ポイント」を一気に使い果たすぐらいの大ヘマをしでかす。―――

 

 

「エクトルのママー!エクトルのママ―!」と子供たちが叫ぶ声、「梅…、梅…」と、私を呼ぶか弱いエクトルの声が聞こえるまで、私はkindleで「わたしのマトカ」を夢中で読んでいた。

 

はっ!と気付いて顔を上げると、何人かの女の子たちに囲まれながら私の元へやって来るエクトル。

エクトルは額からボタボタと血を流していた。

エクトルの額から流れている血は、もしや私の血なんじゃないかと思うほど、私は一気に血の気が引いた。

 

「ティッシュ…、ティッシュ…」と私はカバンをまさぐってポケットティッシュを取り出す。

っく~!!こんな時に限ってティッシュがあと2枚しかない!!

コンクリートの地面に、真っ赤な血がボタボタこぼれて血だまりになっているのが視線に入った。

白いコンクリートがエクトルの血で赤く染まっていく代わりに、私の頭の中はどんどん真っ白になっていく。

「落ち着け。今ここでエクトルに私が慌てているのを見せてはいけない。」

変な所だけ妙に冷静になっていく。

 

そうこうしているうちに、何人かのクラスメートのママたちがダダダッと駆け寄ってきた。

皆、どこにそんだけの量持ってたんだ?ってぐらい大量のキッチンペーパーみたいなどデカい紙を手にしていて、1人のママが他のママたちからそれを受け取り、すぐさまエクトルの額に押し当てた。

紙を手渡し終えたママたちは、今度はエクトルに声を掛ける。

「大丈夫!大丈夫よ~、エクトル!」

「エクトル落ち着いてねー。大丈夫だから。」

「痛くない、痛くないよ~。」

「すぐ病院に連れて行くからねー。お医者さんに診てもらおうねー。」

エクトルは、落ち着いていいものやら、落ち着くわけにはいかないのか、どうしたもんかというような顔をして、時折涙が頬をつたう。

さっきまで走り回ってたもんだから、汗ビッショリ、涙も流れて血も流れて、何が何だかという顔だ。

 

もう1人のママ、さっき唯一私と言葉を交わしたママが、「これ使って!」と、これまたどデカいパックの赤ちゃんのおしり拭き用ウェットペーパーを、パックごと私に差し出した。

「え…、でも…」と戸惑っていると、「気にしないで!いっぱい使っていいから!」と笑って言ってくれた。

 

ママたちの行動は素早かった。

私がモタモタ・オロオロしている間に、他のママたちが、なすべきことをササーッと瞬く間にこなしていく。

私ができたことはせいぜい、エクトルの鼻と手に付いた大量の血を、受け取ったおしり拭きで拭きとって、「大丈夫だぞー。心配すんなー。」と言ってあげることぐらいだった。

 

エクトルの額に紙を押し当てているママが、「近くに小さいけど、救急の病院があるから!ほんとにすぐそこ!さ、行くわよ!」と言って、エクトルの肩を抱いてもう歩き出していた。

 

ビクトルに言わないと!ビクトルに言わないと!

保険証も持ってないし、携帯も持っていない。
(スペインに住み始めてから、私はスペインで携帯を持っていない。)

「夫に伝えないと!保険証も持ってませんから、一旦家に連れて帰り…」

言い終えないうちに、ママたちから「なーに言ってんの!病院が先!!」と、一斉に撃が飛ぶ。

「ほら!エクトルのママ!行くわよー!」と、エクトルの額を押さえているママが、病院に向かってもうだいぶ歩いている。

私は見送るママたちに「ありがとうございました」と言ってぺこっと頭を下げ、エクトルと同行しているママを追いかけた。

 

ビクトルに言わないと!ビクトルに言わないと!

私はまだ思っていた。

手が震えて震えてしかたなかった。

 

でも携帯がない。

このママに貸してもらおう。

病院へ向かう途中で、私は彼女に携帯を貸してほしいと頼んだ。

正確には、この時ちゃんとスペイン語を話せなかった。

「あの、tengo que llamar a mi marido、so、えーっと、puedo let me usar tu…tu…」

もう、日本語と英語とスペイン語、ごっちゃごちゃだ。

しかもなぜか、肝心の「携帯」という言葉が出てこない。

「私の携帯のこと?いいわよ!ほらどうぞ、使って使って!」と、彼女は笑顔で携帯を貸してくれた。

 

携帯を貸してもらったはいいが、今度はどこで電源を入れるのかわからない。

画面を何度指で撫でても、画面が黒いままだ。

彼女がそれに気づいて、電源を入れてくれる。

電源が入ったはいいが、今度は、Web画面やらSMS画面やらがわんさか表示されて、なかなか通話画面に行き着かない。

「あぁ~もう!」と言いながら、それらの画面をどんどんスライドして消していく彼女もまた、慌てていた。

 

家か携帯か、一瞬迷って、ビクトルの携帯に電話した。

2度ほどコールして、ブツッと切れた。

たぶん、ビクトルの携帯の充電が切れたのだ。

もーーう!!なんでちゃんと充電してないかなー!

私も私だ!なんで携帯になんか電話したかなー!

 

「今はとにかく病院に行こう!それからでも電話はできるから。」と、同行しているママに言われた。

携帯の持ち主からそう言われては、「もう一度電話させてくれ」とは言えなかった。

 

病院は、本当に公園の目と鼻の距離だった。

入ってすぐの待合ロビーには、もう何人もの人が椅子に腰かけているし、診察室らしき部屋の前には、黒人の中年カップルが順番を待っていた。

私たちに同行しているママが「診察してるのこの部屋だけなのー?困ったなー。救急なのになー。」とかなんとか捲し立て、黒人カップルの目の前で、「エクトル、座って待とうか。待ってられる?もう少しだからね。」とエクトルに話しかけていた。

エクトルの顔や手に残った血の跡を見た黒人カップルが、事の重大さに気づいたような顔で「お先にどうぞ」と順番を譲ってくれた。

 

赤ちゃん用おしり拭きのどデカいパックと、エクトルのジャンパーと、同行しているママの携帯を抱えた私は、なすすべがなかった。

エクトルの手に血の跡がまだ残っているのに気が付いて、おしり拭きを1枚取り出し、「大丈夫だからね。すぐパパ呼ぶからね。」と言って、手を拭いてあげるのが精一杯だった。

 

同行しているママに「携帯、使ってもいいですか?」と言って、今度は自宅にかけた。

ビクトルが出た。

「エクトルが公園で転んで、額を打って怪我をした。血がすごくて、今、クラスメートの1人のママと一緒に近くの病院に来てるから、早く来て。」

そう伝えた。

ビクトルは「マイゴッド!どこの病院?何ていう通り?」と聞いた。

 

スペイン人は、場所を説明する時、通りの名前を使う。

私はこの病院の通りの名前を知らない。

公園と、私たちが2人でよく行くカフェの間の通りだと伝えたいけど、言葉が思うように出てこない。

「ここ何通りですか?」と同行しているママに聞いて、ビクトルに通り名を伝えた。

ほんとに…私は何年ここに住んでんだよ!

通り名さえも伝えられない自分に苛立った。

 

診察室の中の医者が、なかなか次の患者を呼ばないので、私はすぐ背後の受付に行って、人を呼んだ。

私が率先して気付いて行動できたのは、唯一これぐらいだった。

でも受付の人を呼ぶことはできても、話をしてもらうのは、同行しているママだった。

 

受付の人がすぐさま医者に連絡を取り、私たちは診察室に入った。

医者は2人いた。

エクトルを診察台に寝かせ、押し当てていた紙を取り、傷の様子を診てくれた。

額の傷は、向日葵の種ぐらいの大きさと形で、ぱっくり切れたというよりは、ごつんと穴が開いたような傷だった。

いろいろなことが頭に浮かんで、言葉がなかった。

 

「これは縫わないとダメだね。ここで縫えるけど、うまく縫ってあげられないから、総合病院に行った方がいい。あそこだったら、綺麗に縫ってもらえて跡が目立たないと思うよ。」と医者が同行していたママに伝え、ママが私にわかりやすく教えてくれたけど、「総合病院に行かなければならない」ということしか、その時は理解できなかった。

 「総合病院に行かなければならないんですね?」と尋ねると、2人の医者と同行しているママが「そうそう!それでね…」と、3人が一斉に話し始めた。

浴びせられる3人のスペイン語の集中豪雨。

あぁダメだ、全然わかんない。

耳が完全にシャッターを下ろし、脳みそのヒューズが飛んだ。

 

唯一わかった言葉、“総合病院”と聞いて、ますます気が遠くなった。

「あそこは重症患者しか行かない場所」―――そうビクトルに教えられていたから。

 

医者は手早く消毒すると、傷口に分厚いガーゼを当てて包帯を巻いた。

ここでの診察は終了。

玄関先の待合ロビーにエクトルを座らせ、同行していたママと話していると、ビクトルがアーロンと共にやって来た。

「エクトル、パパが来たよ!」とエクトルに言うと、それまで泣かなかったエクトルの目からボロボロと涙がこぼれ、しゃくりあげて泣き出した。

 

同行していたママがビクトルに一連の出来事を伝え、受付からもらった総合病院への紹介状を渡し、帰って行った。

私は何度も何度も「ありがとうございました」と礼を言って頭を下げた。

 

家には帰らず、総合病院へ直接向かうことにした。

タクシーを拾うために大きな通りまでしばらく歩いた。

ビクトルは保険証は忘れずに持って来てくれたが、お金を持って来るのを忘れた。

「梅子、お金持ってる?」

「うん、持ってる。」

「いくら?」

「90€ぐらいはある。」

「よし、タクシー乗るには十分過ぎるほどだ。」

スペインでは、病院では大人も子供も一切お金がかからない。

 

「やってくれたね…。あぁ、前妻に報告しなくちゃと思うと、この先何が起きるのか、想像したくないよ…。」とビクトルが呟いた。

 

「かわいそうに、エクトル…。」とアーロンが言った。

「エクトルがこんな目に遭ったのは、梅子のせいだからね。」と言われた。