世界でいちばん幸せな場所 1
5月も半ばに入ってからは、ほとんど毎日お天気が良くて、連日、真夏のような日差しが照りつけている。
空は、憎たらしいほど真っ青で、雲一つない。
先週のとある夜、ベッドに入ってから、夫ビクトルと私は、「もう寝ないと。明日早いんだから。」と、お互い言い合いながらも、暑くて寝付けず、しばらく話をしていた。
ひとしきり話した後、私は「ねぇビクトル、これだけは絶対忘れないでね。それでも私は、あなたと結婚できて今でも本当に幸せなんだからね。」と言った。
ビクトルは声を詰まらせながら、「ありがとう。ありがとう。」と言った。
そして、少しの間、私たちは2人で泣いた。
このブログは、私の日頃の愚痴の吐き出し場なので、負のオーラは満載、ネガティブな内容が多いし、ブログを読む限り、まるで毎回不幸自慢大会を繰り広げているようだけれども、前妻シュエの狂喜乱舞っぷりは、想定外の例外として、それを除く家族の出来事は、いくら腹の立つことや悲しいこと、嫌なことがあったとしても、「だって家族だもの。こんなもんでしょ。」と、常々思っている。
ドラマやコメディじゃあるまいし、毎日毎日、感動で涙したり、家族そろって大笑い…とはいかないだろう。
どうしようもなくつまらないことで喧嘩したり、怒ったり泣いたり、そういうのも全部ひっくるめて、意地でも強がりでもなく、こうして“普通”な毎日を、私は本当に幸せだと思う。
ビクトルに出会えて、ビクトルの家族と出会えて、本当にラッキーだったと思っている。
思えば、1カ月ほど前のことだった。
ある日、ママ(=義母)の家を訪ねて、いつものように身の回りの世話をしていると、ママが来ているワンピースの襟元から、発疹があるのに気が付いた。
その赤い発疹は、左側に集中していた。
「あら?ママ、ブツブツができてるけど、どうした?痒い?」と、私が聞くと、ママは「ああ、これ?ちょっと痒いけど、何でもないわ。」と言った。
その数日後にママを訪問した時も、襟元にはまだ湿疹があった。
お喋りをしている最中に、ふと触れたママの手がとても温かったので、「あら!今日はママの手、とっても温かいね!」と私が言うと、ママは「知ってる?手が冷たい人は心が温かいのよ。」と、いつものお得意のフレーズを言って笑った。
私はそのノリで、「でも今日ママの手は温かいから、どれどれ、心も温かいでしょうか~?」とふざけて、洋服の上からママの左胸にそっと手を伸ばした。
その時だった。
私が左胸(乳房よりも上)に触れた瞬間、ママは「あぁっ!!」と叫び、「ここ今痛いのよ。だから触らないで。」と苦痛の声を上げた。
「ママが寝込んだのを見たことがない。」とビクトルが言うほど、ママは昔から病気知らずで、ちょっとやそっとの痛みや辛さぐらいでは、ビクともしない人なのに、こんなに痛がる声を上げるのは、ただ事ではないと瞬時に思った。
「ママ、ちょっと服の中を見せて。」と言って、襟をめくりママの胸元を見ると、皮膚は赤茶色でカチカチに固くなっていて、たくさんの水膨れができていた。
帯状疱疹かもしれないと、すぐに思った。
ちょうどその頃、私は日本に住む古い友人の1人と、たまたま久しぶりにメールで連絡を取り合っていた。
その友人は、「今、重度の帯状疱疹を患って、入院している。」と言っていた。
友人の病状を聞いて、何かアドバイスできれば…と、その頃私は帯状疱疹について、ちょくちょくネットで調べていたので、ママの発疹と水膨れが左側(身体の片側)に集中していることや、痒みと激痛があることから、迷うことなく帯状疱疹だと思ったのだった。
訪問の帰り道、私はビクトルにママの発疹のことを伝えた。
ビクトルは話を聞いてくれたが、「それで?どうする?病院に行くのもイヤ、医者を呼ぶのもイヤ、お手伝いさんを雇うのもイヤって言ってる人だぞ。助けてあげたくても、どうせ僕たちには何もできないよ。」と、イライラした様子で吐き捨てるように言い、その日はこれ以上、ママの話はおしまいになった。
ママを訪問する度に、私は、ママの左胸の様子を見て触って観察し続けた。
発疹はみるみるうちに広がっていった。
水膨れは所々で潰れ、皮膚は鉄板のようになってしまった。
そして毎回、聞くのを嫌がるビクトルに症状を伝え、「帯状疱疹かもしれない。」と訴えた。
私の友人が帯状疱疹で入院していることを話した頃から、ビクトルがだんだん真剣に話を聞いてくれるようになった。
その頃、私たちは、ママのために本格的にお手伝いさんを雇うことを決めようとしていた時だった。
前回、ママが転倒した時に、だいぶすごいレベルでの粗相があって、ビクトルはかなりショックを受けた。
それがきっかけで、「私たちだけでの介護は、そろそろ限界に来ているかもしれない。」と、お手伝いさんを雇う決心をしたのだった。
そして今回の謎の発疹が、私たちの決心をさらに後押しした。
昨年、修道院から紹介していただいたのに、結局その時は雇わなかったお手伝いさんに、ダメ元で連絡を取ってみたら、昼間は別の仕事があるからできないけれども、夕方からの短時間なら可能だと言ってくれて、早速お願いすることにした。
それと同時に、ビクトルは毎回ママに「病院に行こう。行くのがイヤなら、せめてお医者さんをここに呼ぼう。」と、説得も始めた。
でも、ママはいつも「病院なんて行かない!誰もこの家に来なくていい!私は何ともない!病人扱いしないで!」と喚いて、私は、ビクトルが次第にストレスを抱え始めているのを感じた。
それから数日が過ぎ、日本の母の日が終わった翌週の平日、私は日本の母に、母の日のお祝いの電話をかけた。
お互いの近況を話し、夏に里帰りすることも話し、最後に母が「お義母さんの様子はどう?」と聞いた。
母は、日頃からママの様子を気にかけてくれていて、電話をするといつも必ずママのことを聞いては、今は亡き祖母の介護の経験から、いろいろアドバイスをしてくれる。
私は、ママの胸の発疹のことを話し、「あれ、たぶん帯状疱疹かもしれないわ。」と言った。
すると、それまで和やかに話していた母が一変、「帯状疱疹?!病院には行ったの?」と、深刻な声になった。
「まだ行ってない。ママも行きたくないし医者も呼ぶなって言って聞いてくれないし、どうしたものやら。」と答えると、「何やってんの!!」と、いきなり怒鳴られた。
「お義母さんはもう認知症なんだから、病院行きたいかなんて聞いてる場合じゃないでしょう!ビクトルとアンタが判断しないでどうするの!」
母の背後にいるらしい父も、「それはダメだ!早く病院に行け!イヤだとか言ってる場合じゃないだろうが!」と、叫んでいるのが聞こえた。
「もうこの電話切っていいから、切ったらすぐにビクトルに言って、救急車呼んでもらいなさい!帯状疱疹を甘く見るんじゃない!落ち着いたらでいいから、後でちゃんとお母さんにも報告しなさい!わかった?じゃあ、切るよ!」
そう言って、母は一方的に電話を切ってしまった。
電話を終えてから、私は今母に言われたことをビクトルに言うべきか悩んだ。
母があんなに怒るということは、相当の緊急事態なんだと改めて思った。
改めても何も、緊急事態で重大なことぐらい、私もビクトルももう知っていた。
知っているのに、どうしようもないこのジレンマ。
ここ最近の、ビクトルとママとの「病院に行く・行かない」の押し問答で、ビクトルのイライラが頂点に来ているのを見ているだけに、母に言われたからと、「ほら!早く!早く!」とビクトルを急かすのは、どうしてもためらわれた。
タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど同じ頃のある日、ビクトルのいとこから電話があった。
ビクトルの母方のいとこで、ママのお兄さんの娘だ。
いとこ家族は、私たちの住む街から遠く離れた別の県に住んでいるのだが、たまたまママのお兄さん(ビクトルの伯父)と共に、私たちの街に旅行で来ていて、ママとはもう何年も会っていないから、翌日ぜひ会いに行くとのことだった。
その電話の後、私とビクトルが掃除道具を持ってママの家に走ったのは、言うまでもない。
普段は、ママに悟られないようにコッソリ掃除をしているので、いつも目に付く所だけをチャチャッと掃除する程度だったのだけど、この日はママに「何してるの?!ちょっと!余計なことしないでちょうだい!」と散々怒鳴られながらも、私たちは徹底的に掃除をした。
その後私は、嫌がるママと格闘しながら服を着替えさせ、ボサボサだった髪を櫛でといた。
ママの服と下着を脱がせた時、私は初めてママの左胸を完璧に見た。
脇腹まで広がる、赤茶色の鉄板のような固い皮膚。
乳房の下は、所々が膿んでいて、黄色い液体と血が混ざっている状態。
乳房は特に最悪だった。
乳首を残して、皮膚はまるでケロイドのようで真っ赤だった。
さっきまで着ていた下着は、左胸の所だけが、水膨れの破裂した液体と、膿みと血で、カピカピになっていた。
まさかこんなにまでひどい状態になっていたとは、想像もしていなかった。
着替えを終えた後、私はキッチンで1人、声を押し殺して泣いた。
落ち着きを取り戻し、ビクトルに頼んで、ガーゼを探してもらった。
この日、私は、日本の皮膚科医から処方してもらって、スペインに持って来ていた抗生物質入りのステロイド軟膏を持参していたので、ママの胸に塗り、ガーゼを貼った。
ただれの範囲が広すぎて、軟膏はあっという間になくなった。
しかし、そんな付け焼刃も空しく、翌日、ママを訪問した後であろう、ビクトルのいとこから「叔母さんどうしちゃったの?!あまりの変わり果てた姿に、父も落ち込んじゃって…。」と電話があった。
ビクトルは、「実は…」と、いとこに事情を白状した。
いとこは、「あぁそうだったの。可哀想なビクトル…。何も知らなくてごめんなさいね。お姉さんを亡くして、あなた1人だけで面倒を見なければならなくて、本当につらいわね。私たちが近くに住んでいれば、手助けしてあげられるのに…。本当にごめんなさい。」と、ビクトルに言った。
ビクトルはいとこと伯父から言われたことで、私は母に言われたことをビクトルに伝えられないことで、お互いがそれぞれの事情で悶々としながら、奇しくもその週、私は誕生日を迎えた。
誕生日の日だけは、ビクトルも私も、せめて穏やかに過ごしたいと思った。
夕方、子供たちが帰って来ると、次男のエクトルは「梅子の誕生日プレゼントを買いに行きたい!」と言い、ビクトルが連れて行った。
夕飯の前に、私は子供たちからそれぞれにプレゼントをもらった。
夕飯の後は、みんなでケーキを食べた。
「今日は特別だ!後でみんなでカフェに行こう!梅子はカフェに行くのが好きだからね。」と、ビクトルが言い、家族4人で近所のカフェに行った。
子供たちとビクトルに祝ってもらって、束の間、幸せだなぁと、心から思った。
カフェで、子供たちは各々好きな物を注文し、DSで遊んでいた。
その間、私とビクトルは、カフェオレをすすりながら、今後のママのことを話した。
先日母に電話で言われたことをビクトルに話すなら、今しかないと思った。
「この前、日本の実家に電話した時にね、お母さんにママのことを聞かれたの。帯状疱疹かもしれないって言ったら、“何やってんの!いますぐビクトルに言って救急車呼んでもらいなさい!”って叱られたんだ。」
そして、あの時の電話で、母が話してくれた近所のおばあさんが重度の帯状疱疹を患った時のことを、ビクトルにも話した。
ビクトルは、はじめ、「今日は穏やかに過ごしたいと思ってたのに!」と文句を言ったが、実家の近所のおばあさんの話を聞いて、深刻な表情のまま、私の話を聞いてくれた。
私やビクトルは、もう何年も、毎日のようにママの顔を見ているので、ほんの些細なことでも見逃さない…つもりでいた。
でも、それは時に、重大な見過ごしをしてしまう危険性もある。
こうやって毎日のように顔を見ていると、今回のように、発疹ができるまで、私たちは「ママは健康だ。」と信じて疑わなかった。
発疹を見つけて初めて「これは大変!」とは思ったけれども、今の所ママは食欲もあるし、お喋りもするし、1人でベッドメーキングをして、1人でトイレにも歩いて行けるから、私たちはつい「まだ大丈夫。」と考えてしまっていたのだった。
だけど、例えばビクトルの伯父やいとこ、私の両親らの視点は、そうじゃない。
伯父やいとこは特に、前回ママに会った数年前と、数年たった今のママの姿は、驚くほどの差があった。
そして彼らのその指摘は、のんきにしていた私たちの尻に火をつけてくれた。
「ママには悪いとか、もうそんなこと言ってられない。来週月曜日からお手伝いさんが来るから、お手伝いさんが仕事に慣れた辺りで、救急センターに電話をして、訪問医を手配しよう。」と、ビクトルが言い、私も賛成した。
その夜、ビクトルは、甥っ子のエステバンにメールをして、医者を呼ぶことを伝えた。
その翌日は、金曜日だった。
子供たちは、学校が終わると母親シュエの家へ行って、家には私とビクトルだけになった。
ビクトルは、「昨夜はあれからいろいろ考えちゃって、全然眠れなかった。今日の体調は最悪だ。」と言った。
午前中、エステバンから電話があって、「訪問医を呼ぶなら、今日呼んだ方がいいんじゃない?」と提案された。
事は一刻を争うことは、重々承知していた。
でも、私は「今日じゃない方がいい。早めにと言うなら、週明けにしよう。」と言った。
実際、前夜にカフェで話していた頃からすでに、ビクトルの心と体が、この事態に追い付けていないのは、明らかだった。
今実行したら、おそらくこの週末は、病院だのママの看病だの、何らかの手続きやら準備やらと、目まぐるしく過ぎ去って、休む間もなく日曜の夜には子供たちが帰って来る。
週が明けたら、今度はママだけでなく子供たちのことでも忙しくなるだろう。
もちろん私だってできることは何でもやって、ビクトルを手助けしたいけれど、救急センターへの電話にしろ、医者との会話にしろ、手続きやら何やらにしろ、結局、いちばん働かなければならないのは、ビクトルだ。
ビクトルが今、こんな状態では、ママよりも早くビクトルの方が参ってしまう。
「ママには申し訳ない。今この状況でこんなことを言うのは、何をのんきなことを!と思うかもしれない。でもあなたはこの週末、休んだ方がいい。週明けにお医者さんを呼ぼう。週が明けたら、子供たちも帰って来てますます忙しくなるけど、だからこそ、そのために心と体を休ませて、週明けに備えた方がいいと思う。」
私がそう言うと、ビクトルは「はぁ~。本当にどうしたらいいんだろうなぁ。自分がこんなに弱いとは情けないよ。」と言って、天井を見上げた。
そして、「エステバンに“週明けにしよう”って、電話するよ。」と、弱々しい声で言うと、ビクトルはエステバンに電話をしにリビングへ消えた。
そうして、ビクトルとエステバンが再び話し合い、決行日は、週明けの火曜日となった。
その日の夜中。
寝ていると、ビクトルが苦しそうに何度も寝返りを打っているのに気が付いて、目が覚めた。
「どうした?暑いの?」と聞くと、ビクトルは何も答えずに起き上がり、バスルームへ直行。
バスルームから、ビクトルが嘔吐しているのが聞こえてきた。
私は急いで起き上がり、キッチンに走って、ミネラルウォーターのペットボトルとコップを手に取ると、また寝室へ走って戻った。
そして、引き出しから胃薬を探した。
ビクトルがベッドに戻って来た。
「お水、少し飲もうか。」と、私がコップの水を差し出すと、ビクトルは堰を切ったように泣き出した。
「僕がいちばん強くなくちゃいけないのに、家族を守らなくちゃいけないのに、こんなに弱くてごめん。ごめん。」と、ビクトルが言った。
「そんなことないよ。あなたはちゃんとやるべきことをこなしてるよ。謝ることなんかないよ。こんな状況だもの、具合も悪くなるって。みんなそうなるんだから、心配しなくていいんだよ。」
そう言って、私はビクトルの背中をさすった。
ママが嫌がるのをまるで口実に、私たちはママをもう何年も病院に連れて行かなかった。
今、こうして明らかな緊急事態があるにも関わらず、この週末は休むことを決断した。
私たちの決断は、いつも「これでいいのかな。遅すぎるのかな。ママにとって何がいちばんいいんだろう。」と、葛藤の末の決断で、決断した後もなお、葛藤が続く。
ビクトルは、この時、完全に自責の念に押し潰されていた。
■本記事シリーズのタイトルは、映画「地球でいちばん幸せな場所」(2008年公開、アメリカ・ベトナム)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。