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梅子のスペイン暇つぶし劇場

毒を吐きますので、ご気分の優れない方はご来場をご遠慮ください。

悩みは深い海の如く 2

【日々のくらし】

前回のお話は、コチラ

 

子供を持つことに躊躇する理由は、まだまだある。

(考え出すと、本当にキリがない。笑。)

 

例えば、我が家には、もうこれ以上子供部屋を作れるほどの部屋数もないし、広さもない。

男の子だったら、アーロンとエクトルと「3人同じ部屋!」なんて言えるけれど、もし女の子だったらそうはいかない。

部屋については追々考えるとしても、真面目な話、いくら子供たちから了解を得たとしても、いざ私自身の子供ができた時、悪い意味で自分の子とアーロン、エクトルを比べたり、自分の子を特別扱いしてしまうのではないかと、不安もある。

「どうせアンタたちは、シュエの子だからね…。」なんて、思ってしまったり、下手すれば本人たちに言ってしまうのではないか。

逆に、自分の子供に対しては、遠慮がいらない分、アーロンやエクトルよりも厳しく躾けてしまうのではないか。

なぜ厳しくしてしまうか。

その根底にはやはり、「この子はアーロンやエクトルとは違うから…。」

そう思ってしまう日が遠からず来るのではないか。

どの子にも分け隔てなく愛情を注ぐことができるのか、自信がない。

 

それから、ビクトルのこと。

これが実はいちばん大きな理由かもしれない。

ビクトルは、「梅子が決めていいよ。」とは言ってくれたが、それは決して、「よし!僕たちの子供を作ろう!」と言ってくれた訳ではない。

ビクトルの本心は、やはり今でも「子供はもういらない。」なのだ。

 

ビクトルは、アーロンとエクトルを、ほぼ1人で育てたと言っても、過言ではない。

そして、そもそもビクトルは、シュエとの結婚時代からすでに、子供を作ることにあまり乗り気ではなかった。

アーロンもエクトルも、すべてシュエが望み、ビクトルに泣きついたり、喚いたり、「離婚する!中国に帰る!」と脅したり、褒めそやしてできた子供たちだ。

(そういえば昔、この話を私の友人に話した時、「そういう考え方、ビクトル卑怯だわ~!」と友人に言われたっけ。)

デパートなんかのおもちゃ売り場で、子供が床に寝転がって「買って!買って!」と駄々をこねる…なんていう光景があるけれど、まさにこんな子供のように、シュエが床に寝転がって「子供が欲しい!」と、駄々をこねたことがあると、以前ビクトルに聞いたことがある。

そんなにも子供を欲しがったシュエだが、いざ手に入れると、それで満足してしまうのもシュエだ。

アーロンが生まれた頃、ビクトルは外に出て働くのと在宅での仕事と、2足のわらじ状態だったそうなのだが、シュエはビクトルの在宅での仕事は、仕事とは思っていなかった。

だから、ビクトルが家にいると、アーロンの育児を強要した。

その頃シュエは、働きには出ておらず、専業主婦だったのだが、彼女の1日の育児は、食事の準備とアーロンをお風呂に入れることのみで、それ以外の育児の仕事は、すべてビクトルに任されていた。

数年後、シュエは「アーロンが一人っ子では可哀想。兄弟姉妹を作るべき!」と、アーロンの時のように散々主張して、エクトルが生まれた。

その頃、シュエはもう仕事に目覚めていたので、ビクトルはシュエに「子供が欲しいなら、仕事は辞めろ。どちらかを選べ。」と迫ったのだが、外に出て働く楽しさを知ってしまったシュエは、子供も仕事も欲しがった。

その頃ビクトルは在宅での仕事1本だったので、当然エクトルの育児はビクトルに委ねられた。

実はエクトルは、彼が1歳になった時から2歳になるまでの約1年間を、中国でシュエの両親によって育てられている。

その頃、シュエは1年の半分以上を中国へ出張していたので、ビクトルは、「1人でアーロンとエクトルの育児をしなければならないのは不可能だ!」と、音を上げた。

シュエはシュエで、自分はそうそうスペインには帰れないし、かと言って子供に会えないのも寂しい。

そこで、彼女は考えた。

エクトルを中国の両親に預けておけば、自分は好きな時に子供に会えるから寂しくない。(この時シュエは、中国では会社が用意しているアパートの一室を出張拠点としており、両親とは住んでいなかった。)

それにこの時期にエクトルを中国語の環境に長く置いたら、将来中国語を話せるようになるのではないか。

そして、ビクトルとシュエは、エクトルをシュエの両親に託したのだった。

 

ところで、この話を初めてビクトルに聞かされた時、私は口から心臓が飛び出るほど心底驚いた。

その時のビクトルとシュエの状況を考え、夫婦2人の決断だと言われてしまえば、他人の私がとやかく言うことはできないけれども、それでも、「赤ちゃんを別の国で祖父母に預けるって…」と、シュエにもビクトルにも、驚愕せずにはいられなかった。

ちなみに、今、エクトルは中国語は大して話せないし聞き取れない。

最近まで中国語のレッスンにも通っていたが、エクトルにしてみれば、友達と遊べるからレッスンに通っていたようなもので、まったく実にはなっていなかったようだ。

 

話を戻して、その後のビクトルとシュエの別居時代も、シュエは海外を飛び回っていたので、アーロンもエクトルも、引き続きビクトルによって育てられた。

ビクトルには、そんな背景があるから、彼にとって子育ては、いわゆるトラウマで、できることならもう二度とやりたくないのだ。

もちろん、もし私たち夫婦の間に子供が生まれたら、私はシュエとは違う。

母親として、責任を持って愛情をたっぷり注いで子育てしたい。

子育ての先輩、ビクトルに、結局はたくさん力を借りることになるかもしれないけれど、それでもできるだけビクトルには負担をかけないようにしたいし、何よりも、私の方が率先して育児をしてみたい。

たとえビクトルに「ここは僕に任せて。」なんて言われても、「いいや、私にやらせて!」と言うぐらい、そのぐらいの意気込みだ。

 

しかし、今、こうしてビクトルの「子供はもういらない。子育てはもうたくさんだ。」という本心を知ってしまっている以上、私はそれでも子供が欲しいと、主張していていいのだろうか。

子供ができてしまったら最後、ビクトルもそれなりに愛情を持ってはくれるだろう。

でも、本当は望まれなかったのに生まれてくるなんて、これほど悲しいことがあるだろうか。

今、アーロンもエクトルも、ビクトルと対等に話ができるほど大きくなったし、さほど手はかからない。

ビクトルにとっては、ようやく子育てが一段落したところに、また1人手のかかる子供を増やしたいなんて言ったら、「ビクトルの重荷や苦しみを一緒に担ぎたい。」なんていう、私の“使命”とやらは、本末転倒もいいとこなのではないか。

ビクトルのこれまでの人生を考えても、歳を考えても、そろそろ彼を解放してあげた方がいいのではないか。

これからは、ビクトルには人生を自分のために楽しんでもらった方がいいのではないか。

 

そこまで躊躇しているのに、それでもなぜ、私は子供を持つことを諦めきれないのか。

それは、前記事でもお伝えしたように、女として生まれ、こうしてせっかく結婚もできた今、子供を作ってもいいという決定的な権利を得たというのに、それをみすみす逃すのは悔しいという思いもあるのだが、理由はそれだけではない。

老後のことだ。

この歳になってくると、悲しいかな、老い先のことまで考えてしまう。

ビクトルは、私よりも年上だし、私の今までの人生とは比べものにならないほど、壮絶な人生を送ってきた。

今は昔ほどではないにせよ、それでもまだ、シュエのこと、子供たちのこと、そしてママ(=義母)のことで頭を悩ませている。

だからおそらく…、ビクトルは私よりも先に逝ってしまうのではないかと、時々不安になる。

その一方で、私だって怪しい。

長年住み慣れた日本を離れ、この国に来て、シュエからの想像以上の攻撃に、精神的に参ってしまったこともあったけど、それだけでなく、仕事をしていないにも関わらず、いとも簡単に風邪を引いたり、病気になりやすくなったのは、気候が違うこと、食べ物が違うこと、水が違うことが、私の体に大きな負担になっているのかもしれないと思うと、将来、先に逝くのは私かもしれない。

(こういう話をすると、「おいおい、そういう話はやめてよ。」と、いつもビクトルに叱られる。)

 

もし、私が先に逝ってしまったら、ビクトルにはまだアーロンとエクトルがいてくれる。

もし、私たちの間に子供がいたら、その子供だっていてくれる。

もし、その子が私に似ていたら、その子を見る度、ビクトルは連れを失った悲しみが癒せるかもしれない。

 

でも私は?

 

もし、私の子供がいなかったら、ビクトル亡き後、私はこの国で一人ぼっちになってしまう。

もしかしたら、アーロンとエクトルが助けてくれるかもしれない。

でも、私は本当の母親じゃないし、その頃には彼らにも彼らの生活があるだろうから、私からそうそう頼るわけにもいかないだろう。

それに、何よりもおそらくシュエがそうさせないだろう。

日本に引き揚げたとしても、その頃にはもう私の両親もいないだろうし、どこに行っても私は結局一人ぼっちだ。

ももし、私とビクトルの間に子供がいたら、少なくとも私にも、ビクトルの忘れ形見がいてくれる。

 

昨年の秋に、私がビクトルに思い切って私たちの子供を持つかどうか話をした時、私は思わず泣いてしまい、涙ながらにこの話もビクトルに伝えた。

どちらが先に逝くか逝かないか、なんて、本当は考えたくもないし話題に出したくもない。

だけど、結婚前から、結婚してからも、ずっと私の心の中で思い秘めていたことを、この日は全部ビクトルに明かしたのだった。

ビクトルは最後まで私の話を聞くと、「もう泣かないで。」と私の手を握りしめ、そして、こう言った。

 

「たとえ、梅子が僕より先に逝ってしまって、僕の手元に僕たちの子供が残ったとしても、僕が梅子を失ってしまうことには変わりないよ。いくら君の忘れ形見がいてくれたとしても、梅子を失った悲しみが癒えることはない。だって、僕のいちばん大切な人は梅子なんだもの。」

ビクトルは続けた。

「でももし、もし僕が先に逝ってしまった時、君が寂しい、僕の忘れ形見として、僕たちの子供が君の悲しさを癒してくれるのならば、僕たちの子供を作ろうじゃないか。僕がいなくなった後、君が悲しみに暮れて余生を過ごすのは、僕だって嫌だもの。」

その後、私がさらにオイオイ泣いてしまったのは、言うまでもない。

 

しかし、冷静に考えてみると、子供を作るということには、一体どんな意味があるのだろう。

結局、私が子供を欲しいと思う理由は、もちろん、愛するビクトルとの間に2人の愛の証を作りたいという思いも前提としてあるけれど、でも実際は、女として生まれてきたからには、せっかくだから子供を作ってみたい、老後、夫に先立たれてしまったら、一人ぼっちになるのが嫌だから、夫の忘れ形見を作りたいという、恥ずかしくなるほど手前勝手な理由だ。

“子孫を残す”というのは、生物学的にも自然の摂理だろうけれど、人間は、動物とは違って、いろんなことを考えることができるから、いくら自然の現象と言えども、子供を作ることに何らかの思惑や目的が絡む。

“命の尊厳”と言うけれど、私のこんなエゴで新たな命をこの世に産み落とすことが、果たして“命の尊厳”と言えるのだろうか。

 

人はなぜ、子供を欲しいと思うのか。

なぜ、欲しくないと思うのか。

欲しいにしろ欲しくないにしろ、そう思うに至った理由は何なのか。

私は結局、子供が欲しいのか、欲しくないのか。

作るべきなのか、作らないべきなのか。

できることなら、井戸端会議中のセニョーラたちでも地べたに座り込んでたむろっている若者たちでもいい、道で出会うすべての人に、「私は自分の子供を作るべきでしょうか?」と、聞いて歩きたい。

 

でも、わかってる。

 

いくら全世界の人々1人1人に聞いて回ったとしても、結局、決めなければならないのは、私自身だということを。

 

 

■本記事のタイトルは、映画「愛情は深い海の如く」(2011年制作、アメリカ・イギリス)をモジって使わせていただきました。
記事の内容と映画は、一切関係ありません。